2021年02月27日

人生の穴と向き合う

 人生には、ある日突然、思いがけず穴が開くことがあります。重い病気を患ったり、事故に遭ったり、大切な人を失ったりします。他人の無理解やひどい仕打ちで開く穴もあります。毎日の生活の中で私たちが経験する悲しいことや苦しいことがそうです。できることなら穴は開けたくありませんが、残念ながらそうはなりません。私たちは必ず開いてしまうこの穴に対してどうように向き合えばいいのでしょうか。

 穴の前では、茫然とする人、嘆き悲しむ人、腹を立てる人、自暴自棄になる人がいます。ありがたくも嬉しくもない穴ですから、気持ちが荒(すさ)んでしまうのは無理もありません。しかし他方では、気持ちが荒んでいくのを止めて、穴を見つめながら考える人もいます。その人は、荒んだ気持ちを長く持ち続けても、結局は自分の心と体をボロボロにするだけだと知っています。そして驚くことに、この思いがけず開いてしまった穴に顔を近づけて「穴が開く前には見えなかったけれど、こうして穴が開いたからこそ見える風景、今まで見たこともないような風景がきっと広がっているはずだ」と期待感を持って言うのです。その人は人並外れた忍耐力を持っているわけでも、底抜けの楽観主義者というわけでもありません。ただ一つの真実「すべての物事の意味は自分の心が作り出している」ということを知っていたのです。自分の心がけ次第でマイナスの意味付けもできるし、プラスの意味付けもできるということをです。

 先日、友人から手紙が届きました。その手紙には、友人のお母様が痴呆症のために、自分の名前も生い立ちも、これまでの人生の出来事もすべて忘れ去ってしまったようだと書かれてありました。私は、友人がお母様をとても大切に思っていることを知っていましたので、さぞ心中はお辛いことだろうと思いました。ところが手紙の最後には「日に日に心が軽くなっていく母を羨ましいと思うことがあります。色々と忘れてしまうことは神様からの最後の贈り物かもしれません」と書かれていました。なってしまった病いを恨み続けるのではなく、開いてしまった穴から、穴が開くまでは見えなかったものを見ようとする意思、穴が開いたことのプラスの意味を知ろうとする謙虚さが記されていました。おそらく友人はこの心がけによって、平穏な心でお母様と濃密な時間を過ごすことでしょう。

 物事の意味を決めるのは自分の心です。どんなに防御をしても、必ず開いてしまう穴です。生きていく中ではきっとたくさんの穴が開くことでしょう。それならば上手に付き合っていく方が良いに決まっています。自分を暗い気持ちにさせる意味より明るい気持ちにさせる意味を選ぶ方が賢明というものです。私たちはどちらも自由に選べるのですから。

 私たちは、何か事があるごとに神様や仏様にお願い事をします。「健康でありますように」「合格しますように」「成功しますように」といった具合にです。私たちはいつも「欲しいもの」をお願いします。しかし神仏が私たちにお授けになるのは「必要なもの」です。もしかすると、健康を願う人には病いを、合格を願う人に不合格を、成功を願う人には失敗をお授けになるかもしれません。そうだとすると、神仏はそれらが私たちに必要だと判断されたからです。悲しみや苦しみの中でさえ、その人が開いた穴から新しい風景を見ることができる人だと信じておられるのです。私は悲しい時や苦しい時は、この状況が今の私に必要なのだと思うようにしています。そしてこの状況の中で嘆き悲しむこと以外にどんな風景が見えるのか、私を人として成熟させるようなプラスの意味を探すようにしています。

posted by むしょうさん at 11:38| Comment(0) | 人生相談

2020年07月12日

ご奉仕のすすめ

お寺には、建物内外の掃除をしてくれたり、土木作業を手伝ってくれたり、定期的にお花を持参して飾ってくださる方々がいます。アルバイトやパートのお仕事ではありません。お寺からは一度もお金を出したことがないのです。それどころか、皆さん手弁当で、ご自分のお金と時間を使って来て下さいます。このような献身的な行為は、今は「災害ボランティア」の中によく見られますね。しかしお寺では日常の光景です。

お寺ではこれを「ご奉仕(ほうし)」と呼んでいます。私心を捨てて、他のために力を尽くすことです。相手は神仏や故人です。よく耳にするのは「私が今こうしていられるのは仏様のおかげです。これぐらいはさせてください」という声や「故人がきっと喜んでくれると思います」といった声です。

私心を捨てるとは、損得や効率を考えるのをやめるということです。この労働がいくらのお金になるのか、どうやれば少ない労力で効率が上がるかとは考えません。ただ相手の喜びや幸福だけを願うのです。1円にもならなくても、効率が悪くても構わない、相手が喜んでくれればそれで良い。そういう風に、普通の賃金労働とは異なる価値観で成り立っているのがご奉仕です。

しかしご奉仕は、思わぬ利益をもたらします。それは心が清らかになることです。すがすがしい気持ちと充実感をもたらします。仏教は心を清らかにすることを第一義にします。心が清らかなら、すべての幸福が手に入るからです。この多大な利益を考えると、「他のため」と言いながら、実は自分のためでもあるのです。

ご奉仕をしてくださった方に、私たち僧侶は「ありがとう」とは言わない約束です。ご奉仕は、自分の心を清めるための正精進(しょうしょうじん:正しい修行)だからです。もし言うとすれば、「ご精進、ご苦労さまです」でしょうか。ただ実際には「ありがとう」と言ってしまいますね。言わずにはいられないのです。ご奉仕をしている姿は、どなたも光り輝いています。その様子を見れば「尊い姿を見せてくれてありがとう」となります。

皆様にもご奉仕をおすすめします。家庭でも会社でもできることです。「そんな1円にもならないことを…」というお考えの方もいらっしゃることでしょう。1円を稼ぐことはとても大切です。しかし、人生にはそれ以上に大切なことがあります。それは汚れている心を清めることです。人間が成熟するとは、お金持ちになることではありません。自分の心がどれほど汚れているかをよく知って、少しでも清らかになるよう努力し、その清らかなら心で周りの人たちの幸福に貢献することです。


【これもチェック!】
仏教の第一義は「自浄其意:じじょうごい」です。「自分で自分の心を清めること」です。もしこの努力を段階分けするなら次のようになるでしょう。「ご奉仕」はAとCに相当します。

@ 汚れている心を認識する。
A 汚れを取り除く努力をする。
B 汚れが取れて清らかになる。
C 清らな状態を保つ努力をする。

皆様のご精進を応援します!

posted by むしょうさん at 10:55| Comment(0) | 人生相談

2020年03月05日

死にたいと思っているあなたへ(改訂版)

こんにちは。無聖(むしょう)です。あなたは「死にたい」と思っているのですね。私にも覚えがあります。きっと多くの人が同じ経験を持っていると思いますよ。あなたは「死にたい」という思いと一緒に「どうして生きなければならないのか?」と思っているかもしれませんね。実は、これはとても難しい質問なんです。ちゃんと答えられる人は少ないと思います。

今から2500年ほど前、今のインドとネパールの国境あたりにシャカ族という部族が暮らしていました。このシャカ族の中にゴータマ・シッダールタという名前の王子がいました。私たち僧侶は、尊敬の念を込めて、この王子のことを「おシャカさま」とか「ブッダ」と呼んでいます。そう、仏教を作った人です。このおシャカさまが「どうして生きなければならないのか?」という質問に対して、すぐに答えることはしないで、私たちが自分で答えを見つけられるようにヒントを与えてくれました。人から聞いて答えを知るより、自分で考えて答えを見つけた方がずっと役に立つからです。おシャカさまはこう言いました。


「この世界では、すべてが互いに依存しあっている。
これは誰にも変えられない真実である」


この言葉をヒントに考えてみましょう。まず最初に「縁起世界(えんぎせかい)」という言葉を覚えてください。これは、おシャカさまの言葉のとおり「すべてが互いに依存しあっている世界」のことです。ここで言う「すべて」には、生き物だけではなく物や現象も含まれているのですが、今は生き物に限ってお話しします。言い換えると、縁起世界とは「すべての生き物はお互いに頼り合って生きている。相手がいるから自分が存在し、また自分がいるから相手も存在する。反対に、相手がいなければ自分は存在せず、また自分がいなければ相手も存在しない。このような関係だけがある世界」ということになります。縁起世界は、どこか遠い夢の世界のことではありません。私たちが今生きているこの世界の本当の姿のことを指しています。縁起世界では、生き物は皆お互いに頼り合っているので、「一人ぼっち」ということがありません。しかし、そうは言っても、現実には一人ぼっちを感じることが多いですよね。あなたもきっとそうでしょう。それは、縁起世界はなかなか目立たなくて、想像力や観察力をフル回転して「よし、見るぞ!」と真剣に見なければ見えないからです。ちょっと見たぐらいでは縁起世界は見えません。さあ、それではゆったりした気持ちで、でも真剣に、頭の中でイメージを膨らませながら、この世界の本当の姿を見てみましょう。

正雲寺(しょううんじ)は、山の中にあります。山には大きな木がたくさん立っています。その内の一本を見てみましょう。太い幹からは数えきれないぐらいのたくさんの枝が伸びています。そしてその一本一本の枝には、これまたたくさんの葉っぱが付いています。その内の一枚を見てみましょう。春になると枝から小さな芽が出て、やわらかくみずみずしい黄緑色の葉っぱが広がります。夏になると濃い緑色になって、今度は固く強そうな葉っぱに変身します。秋になると緑色は薄い黄色に変化し、オレンジ色になったかと思うとすぐに真っ赤に変わります。冬が訪れると赤色はうす茶色に変化し、水気を失って小さく縮みます。やがて自然に枝から離れて地面に落ちて行きます。地面に落ちた葉っぱは、昆虫や微生物の格好の食物です。彼らはそこでたくさんのフンをします。それらがまた栄養いっぱいの土を作るのです。この土は太い幹をさらに太くします。土からたくさんの養分を吸い上げた幹は、春になると再び枝を伸ばし、たくさんの葉っぱを茂らせるのです。葉っぱも昆虫も微生物も木の幹もみんなお互いに頼り合っています。もっと言えば、葉っぱが季節ごとに色や姿を変えるのも太陽や雨や風や雪に頼っているからです。こうして見ると、今まで見過ごしてきた生き物たちや自然の営みは、縁起世界そのものだということが分かります。これが、この世界の本当の姿です。人間だけがそこから外れて生きていると考えるのは、とても不自然なことなのです。

あなたも昆虫や微生物と同じように、この縁起世界を構成している一つの大切な要素です。あなたが生きているから、別の命も生きていられるのです。土の中の微生物には木の枝が見えないように、あなたの目には見えないかもしれません。しかし、あなたによって生かされている命がどこかに必ずあるのです。もし目の前に「私はあなたのおかげで生きていられます」と言う人が現れたとしたら、それはとても幸運なことです。しかしそんなことを言ってくれる人がいなくても、あなたが生きているから別の命も生きていられるという事実は変わりません。なぜなら、自然の営みが示すように、またおシャカさまのヒントにもあるように、これは「誰にも変えられない真実」だからです。この「誰にも変えられない真実」のことを「真理」と呼んでいます。この言葉も覚えてくださいね。真理は決して変わらないし、無くなることもありません。ですから、真理に抵抗したり、また真理にケンカを売ったりするのは無駄なことです。決して勝ち目はないのですから。私たちの生老病死も大切な真理です。生まれること・老いること・病気になること・死ぬことの四つは、誰にも変えられないし、無くなることもありません。抵抗してもケンカを売っても勝負にならないことは、皆さんもよくご存知ですよね。

真理は、人の意思とは関係なく存在し働いています。縁起世界の中で生かされている命も、意思に関係なく存在し働いています。命は「すべてが互いに依存し合っている」という真理に従って存在し働いているだけで、人の意思とは関係ありません。ところが私たちは、自分の意思と自分の力で生きていると思っています。それは勘違いなのです。私たちはこの縁起世界の中で、数えきれない量の「私以外のもの達」から支えられて生かされているのです。

生きる価値とは何でしょう。人生の意義とは何でしょう。あなたはどうして生きなければならないのでしょう。その答えはもう明らかです。それは「あなたが別の命にとって必要だから」です。あなたがあなた以外のもの達から支えられているのと同じように、人もその人以外のもの達から支えられています。この中にはあなたも含まれているのです。あなたは「他に大勢いるんだから、私一人いなくても・・・」と考えるかもしれませんね。縁起世界では、無視してもいい命というのはありません。一つ一つがちゃんと役目を担っていて、それぞれが欠かすことができない大切な存在なのです。

命は人の意思で終わらせるものではありません。真理に従って、終わるべき理由がある時に終わるのです。その時とは、一つの命の終わりが別の命を支える時です。あなたは、青々とした夏の葉っぱが自分の意思で枝から離れるのを見たことがありますか。それはとても不自然な姿です。人がその時を待たずに自分の意思で命を終わらせるのも、やはり不自然な姿です。葉っぱは終わるべき理由がある時、その時を待ってから自然な形で枝から離れるのです。人も同じです。

自殺をしてはいけません。あなたは大切な人です。本当は、あなたがいなければ困ると言う人が周りにはたくさんいるのです。しかし困ったことに、周りの人はそれに気付きません。みんな自分のことばかり考えているから、あなたに目が向かないのです。だから今あなたが「誰にも必要とされていない」と感じたとしても少しも変ではありません。でも忘れないでください。たとえ皆が気付かなくても、あなたは大切な人です。それは誰にも変えられない真実です。今あなたが生活している環境では、たまたま真実が見えづらくなっているだけです。今の環境から少し離れてみてください。今、自分が生きている世界から距離を置いて見ましょう。狭い井戸の中で、あても無く、ただもがいているだけだということが分かります。井戸の外には大きくて広い海があります。そこには、縁起世界の中で生きる意味を知り、無理なく自然に人生を楽しむ本当のあなたがいます。

重たい腰を上げて、本物の海を見に行ったり、旅行に出かけるのもいいですね。会津若松の正雲寺に来てくれてもいいですよ。私と一緒に井戸の外の話をしましょう。

posted by むしょうさん at 09:57| Comment(0) | 人生相談

2019年06月11日

仏教勉強会のご案内

道元禅師は「仏教を学ぶとは、自分を知るということだ(意訳)」というお言葉を残しています。「私はいったい何者か。なぜ生まれ、なぜ存在し、なぜ死ぬのか」。「人生にはなぜ苦しみが多いのか。この苦しみはどこから来るのか」。私、無聖も皆様と一緒に素直な心で学びたいと思います。

【日時】毎月第一金曜日
【時間】夜19時から21時頃まで
【場所】正雲寺会津本山 仏殿内
【費用】無料(コピー代など実費はご負担ください)
【内容】仏教入門(お経の味読、座談など)
【持ち物】筆記用具

令和元年は以下の日程で開催します。
7月5日、8月2日、9月6日、10月4日、
11月1日、12月6日

【お申し込み】
教材などを準備する必要があるため、事前にお申し込みいただければ幸いです。参加人数と代表者のお名前をお知らせください。

電 話 0242-28-1110
メール mushosan@gmail.com

posted by むしょうさん at 14:30| Comment(0) | お知らせ

2018年11月10日

LINE通話で心の相談

今までは電話でお悩みの相談を受け付けていましたが、これからはLINEの無料音声通話に変更させていただきます。電話でのご相談はしばらくの間お休みします。ご相談は面談の方が優先です。できれば、お寺までお出でください。

● LINE通話は毎日19時から21時までです。
● 他の方と相談中はお受けできません。
● ビデオ通話やトークでの相談はご遠慮ください。
● LINE通話は一回30分までとさせていただきます。
● 面談を希望される方は日時を教えてください。

【LINE通話の宛先】
IDは、mushosan です。友だち検索してください。

【LINE通話の前に】
受付は19時から21時までです。こちらで「友だち追加」をした後に通話ができます。私(むしょう)一人で担当していますので、ご相談が多いときは繋がらないことがあります。その場合は、しばらくしてからかけ直してください。

【担当のむしょうより】
絶対に自殺をしてはいけません。あなたが生きていてくれるから、別の誰かも生きていられるのです。でも、そのことに誰も気が付きません。みんな自分のことで精一杯だからです。あなたは間違いなく大切な人です。


posted by むしょうさん at 10:22| Comment(0) | お知らせ

2018年11月04日

トモちゃん

正雲寺に新しい仲間が増えました。2018年7月20日、炎天下の境内でのこと。愛犬センが突然興奮気味に吠えはじめました。びっくりして吠えている方向を見ると、50メートルほど先の車の下でコソコソと動く影があります。私は何だろうと思いそっと近づきました。すると、そこには全身の毛を立てて「シャー」と威嚇しながらこちらをにらむ子猫がいました。私の手のひらに乗るほどの小さな命です。とてもおびえていました。

私たちは、長年一緒だった猫のゆふちゃんを亡くしたばかりで、お寺に猫がいないのを寂しく思っていました。動物愛護センターの保護猫を譲り受けようか、それとも猫好きの知人に声をかけようか、などと話し合っていたのですが、「やっぱりご縁に任せて、お寺に(野良)猫がやって来るのを待とう」ということになりました。しかし、それがいつになるのか分かりません。

そんな時にこの子猫が現れました。推定年齢2ヶ月。私はとっさに素手で捕まえようしましたが、子猫の素早さに追いつきません。どうしようかと悩んでいたところ、近くにいた子供達が「どうしたの?」と声をかけてくれました。そこで子供達と作戦を立て、全員で子猫を取り囲もうということになりました。幸い子猫は体力がないらしく、10メートルほど逃げるとすぐにうずくまってしまいます。その時がチャンスです。私は虫取り網を持ち、子供達が逃げ道を塞ぐのを待ってから静かにゆっくりと近づきます。「大丈夫、怖がらなくていいよ。友達だからね。友達、友達」と何度も言いながら近づきます。一度素手で捕まえたのですが、すり抜けてしまいました。今度は絶対に逃がすまいとゆっくりゆっくりです。私は無意識に「トモちゃん」と呼んでいました。友達だからトモというわけです。あと20センチ、10センチ。子猫は先ほどとは違って逃げようとしません。それどころか「トモちゃん」と呼ぶたびに小さく「ミー」と答えます。こうして子猫は無事に保護され、名前も「トモ」になったのです。

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こんなことがあるのでしょうか。ゆふちゃんが亡くなって、次に「ご縁に任せよう」と決めて、それからセンちゃんが知らせてくれて、私が子猫の存在に気づいて、人手が必要な時に子供達がいて…。そうやっていくつものご縁に支えられてトモはやって来ました。偶然ではない大きな力が働いているように思えてなりません。トモの命を、ゆふちゃんが、センちゃんが、そして子供達が支えたのです。命は互いにつながっているのですね。

やんちゃな子猫のこと、それからが大変です。現在トモは6ヶ月。私の部屋で怪獣のように暴れています。静かだった私の生活は一変。トモに振り回される毎日です。もちろん、楽しくて幸せな日々です。寺猫トモちゃんの様子はツイッターでも時々お知らせしています。よろしければご覧ください。

むしょうのツイッター
https://mobile.twitter.com/mushosan

posted by むしょうさん at 12:49| Comment(0) | 日記

2018年11月03日

『修証義』 第27節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200−1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
考えてもみなさい。もしお釈迦様が真理をお説きにならなかったら、私たちが正しい教えを求めて、それに忠実に生きようと願っても、それは叶わなかったのです。〔しかし、嬉しいことにそれは叶います。ですから〕正しい教えに出逢えるようにいつも願うのです。お釈迦様は仰っています。「もし正しい教えを説く師に出逢ったら、その人の氏素性を探ってはならない。容貌を見てはならない。行いに非があっても〔それには深い意味があるのであるから〕批判してはならない。修行の方法を疑ってはならない。ただ教えのみを尊重すれば良いのである。師を礼拝して敬い、信じて従うことである」と。

【法話】
私たちは、語られた言葉を聴かず、誰が言ったのかを気にします。それが批判めいた言葉であった時「あなたに言われる筋合いはない」などと腹を立て耳を傾けません。それが正しい批判であってもです。カチンと来る心やプライドが正しい教えをはばんでいます。正しいこと、真実なことを語る人に出逢えたら、それはとても幸運なことです。もしそんな人に出逢えたなら、素直になって、黙って付き従うことです。そして余計なことは詮索せず、語られる言葉だけをしっかり理解するように努めましょう。あなたの人生で、そのような人はもう二度と現れないかもしれないからです。

タグ:お経を読む
posted by むしょうさん at 18:50| Comment(0) | 現代語訳『修証義』

2018年07月05日

一緒にログハウスを作りませんか?


この度、正雲寺会津本山では
動物たちのための新しい霊殿を
建設することになりました。
自分たちで作る手作りの
ログハウスです。

工期は8月と9月の2ヶ月間。
この間、私、無聖(むしょう)と
一緒に作業してくださる方を
募集しております。

ご興味がおありの方は、
メール(右のプロフィール欄に記載)か
ライン(ID:mushosanで友だち検索)で
お知らせください。
よろしくお願いいたします。

年齢、性別、経験などは
問いません。「たくさんの人に
喜んでもらいたい」という
優しいお心があれば十分です。
私と一緒に素敵なログハウスを
作りましょう!

合掌

追伸
お陰様で11月9日に無事に落慶を迎えました。ご奉仕の皆様に心からお礼申し上げます。ありがとうございました。

posted by むしょうさん at 09:08| Comment(0) | お知らせ

2018年06月14日

『修証義』 第26節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200−1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
私たちは、この世界に人間として生まれてきたからこそ、菩提心(自分よりも人の幸せを願う心)を発することができるのです。過去からの数々の因縁がつながっただけでなく、強く願う心があったからこそ、この人間世界に生まれ、お釈迦様の教えに出会えたのです。なんと嬉しいことではありませんか。

【法話】
この一節は、我が身の尊さを説いています。しかし「私は偉い」と慢心することではありません。私という人間が今こうして存在するためには、いったいどれだけの命がつながり、どれだけの条件が揃えばいいのでしょうか。どれ一つ欠けても成立しないこの命です。まさに奇跡の連鎖と言えるでしょう。その命の貴重さを説いているのです。しかし私たちは、こうして授かった貴重な命を雑に扱ってはいないでしょうか。自分の命を軽んじるのは、それが自分の所有物だと勘違いをしているからです。「私の命は私のもの。それをどう扱おうが私の勝手」と言う人がいます。しかし体の中で私のものと呼べる部分があるでしょうか。もし本当に私のものなら、何事も思い通りになりそうですが、実際にはそうはなりません。顔のシワが増えることや髪や爪がのびることを、私たちは一秒も止めることができません。病気になることも歳をとることも、何一つ自分の思い通りにコントロールできないのです。これで本当に自分のものと言えるでしょうか。体の中の細胞の一つ一つは、すべてご先祖様が作り上げてきたもので、私が新たに作り出したものではありません。私という命は、すべて他人が築き上げたものであって、「私」という意識が、ただその管理を託されているにすぎません。私たちは管理者として、この命を有難く受け継ぎ、そしてこの命の価値を全うしなければなりません。それは、子供を産み次の世代に命をつなぐことだけではなく、誰かの生きる力となって、その命を支えることでもあります。菩提心がそれを可能にします。菩提心こそ、すべての命の中で人間だけが持つことを許された奇跡の心なのです。

タグ:お経を読む
posted by むしょうさん at 10:52| Comment(0) | 現代語訳『修証義』

2018年06月08日

「利他はうんざり!」

そう言って若い僧侶が怒っていました。ちなみに「利他(りた)」というのは、仏教の教えで、選り好みせずに有縁の人々を幸福へ導くことを言います。仏弟子(僧侶)の重要な使命であり、日々の実践徳目でもあります。

その若い僧侶の言い分は「○○さんの幸福のために、どうして私が自分の人生を犠牲にしなくちゃいけないんですか!?」というものでした。彼が○○さんのことを嫌っているのは明らかです。自分の好き嫌いで相手を選んでいること、自分が損をすると思い込んでいること、この二つで、彼が「利他」を理解していないことが分かります。

好きな人のために犠牲になることは誰でもできます。そんな誰でもできることをしても、迷いからの解脱や真の幸福は手に入りません。嫌いな人の幸せを願う心があって初めて手に入るのです。聖書には「汝の敵を愛せ」とあります。同じことです。そして利他は人のためだけではなく、自分のためであることを知らなければなりません。修証義という経典には「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」とあります。俗に言う「情けは人のためならず(自分のため)」です。

もちろん簡単なことではありません。修行の自覚がなければ、続けるのは難しいでしょう。その若い僧侶は、困っている人がいたら口よりも先に体が動くような人で、十分に気持ちの優しい、行動力のある人です。そんな彼ですが、利他はできません。それは利他が確かな修行の先に実現するものだからです。

これは私も時々直面する問題です。そんな時私は釈尊の言葉を思い返します。それは「他人のすることしないことを見るな。自分のすることしないことだけを見よ」という言葉です。善いことをする時は、相手の反応や態度を気にせず、一切の見返りを望まず、やったことの中身を誇示せず、やった自分を誇らない、という意味です。ただ、自分は善に照らして何をしたか、何をしなかったかだけを自問すれば良いのです。これが確かな修行です。私はこの修行の中で一進一退を繰り返しています。この先に利他の心がありますが、まだ遠い道のりのように感じています。若い彼が悩むのも無理もないことです。

posted by むしょうさん at 11:20| Comment(0) | 人生相談