2017年07月10日

問い: 信頼していた人に裏切られました

答え: あなたのターニングポイントです。慎重に考えて下さい。

人が人を裏切る時にはどんな事情があるでしょうか。考えられることは二つです。 まず第一に、相手の方があなたとの関係よりも自分の利益を優先した場合です。程度の差こそあれ、人は誰でもエゴ(自己中心性)を持っています。人のことよりも自分のことを先に考えようとする悪い習性です。智慧のある人はエゴを上手にコントロールして、人にも自分にも嫌な思いをさせないようにバランスをとっていますが、愚かな人は、人に嫌な思いをさせてもそれに気づかないか、もしくは気にしません。目の前の利益に心奪われ、「人は人を大切にすることで幸せを得る」という事実を見落としてしまうのです。このような人に対しては、あなたがその行為を許すことで、その人が放つ悪い波動の支配から脱出するしかありません。相手に「私が嫌な思いをしないように、あなたが変わってください」と要求しても、聞き入れられることはまずありません。「裏切られた。嫌な思いをさせられた」と思い続けることは、いつまでも相手の支配下にあるようなもので、あなたは貴重な時間を浪費して損をするばかりです。あなたが許せば、その瞬間に相手の支配から抜け出て、自分を取り戻すことができます。許しはしますが、以後は明確に距離を置くことです。信頼に足る人ではないからです。相手が改心しない限り、元に戻ることはありません。

第二に、人に裏切られるような原因をあなたが作っていた場合です。人が人を裏切るというのは余程のことです。本来、人間は協調する生き物です。それに反するからには相応の理由があると思わねばなりません。あなたは気付いていませんが、もう何ヶ月も何年も何十年も、相手の心を傷付けていたのです。あなたは信頼していたのかもしれませんが、相手はあなたに積年の怨みがあるのです。まるで喜劇のようです。あなたは、自分に原因があることも知らずに、相手の裏切り行為をなじっています。そのようなことをしていると、やがて、家族も友人もあなたから去り、最期は一人ぼっちになってしまいます。あなたに必要なのは「自分の悪い部分を分析する努力」と「過ちを素直に認め、頭を下げて謝る勇気」です。普段、自分は悪くないと思っている人は、自己弁護が巧みです。口数が多いのも特徴です。分析する力を養うためには、まず多弁をやめることです。相手の言動にすぐに反応しないこと。その場は「少し考えさせて下さい」と言ってやり過ごします。よく考えた上で、反応すべきは反応し、そうでないものは忘れてしまうことです。

人はいつでもやり直すことができます。自分に問題があると分ったら、ドラマチックに変わることです。人は誰でも「お互い様」です。過ちを認めて素直に謝る人を見ると、誰でも許したい気持ちになります。自分にも身に覚えがあるからです。協調は人間関係の自然な姿です。誰もが協調を望んでいます。わざわざ自分だけ孤立するような生き方を選ぶ必要はありません。

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先日、電話相談をされた女性へ
不愉快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。わざわざお電話をくださったのに、お話を最後までお聴きすることができませんでした。失礼を深くお詫びします。電話の冒頭で「同僚に裏切られた」というお話をされておられましたので、わたくしの思うところを書かせていただきました。何かのお役に立てば幸いです。
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2017年06月29日

『修証義』 第21節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200−1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
人を喜ばせ、幸せにする方法に四つあります。@布施(ふせ) A愛語(あいご) B利行(りぎょう) C同事(どうじ)です。これらは、お釈迦さまの智慧であり、利他を誓った私たちの約束でもあります。布施とは、物でも心でも惜しみなく人に与えることです。別の言い方をすれば、「欲しがらない」ということでもあります。本来、物も心も実体はありません。すべては因縁によって生じ、因縁によって消滅するだけで、一定ではなく常に変化しています。ですから「私の物」「私の心」といった固定した存在はありません。そうしたものに執着する必要はないのです。また、与えるものの価値は問題ではありません。人を喜ばせ幸せにしたいという思いがあれば、それで良いのです。たった一語の言葉でも、ひとつまみの草でも構いません。見返りを求めずに、あなたが与えられるものを与えることです。商売にはお金が付きものです。しかし自分が生きる糧以上に欲しがらず、人を思いやる心があるなら、商売もまた立派な布施と言えるのです。

【ミニ法話】
 布施(ふせ)は仏道修行の根本です。修行ができているかどうかは、布施ができているかどうかです。惜しみなく人に与えるには、なるべく持ちものを持たず、身の回りを質素にしておくことです。全部投げ捨てて、すっからかんな人は、物に執着することがないので、惜しむことなく与えることができます。反対に持ちものが多い人ほど執着心が強いので、与えることが難しくなります。
 私は、これまで色々なものを捨てて来ましたが、現に「住職心得」という地位を持っています。いずれは「住職」という地位を持つことになります。これは、信者様がその肩書を信頼してくださるという意味では役に立ちますが、それ以外では、私の執着心を増長させる危険なものです。俗世間に生きて、当たり前のようにお金や物や地位に囲まれて生活する人々が執着心を捨てることは難しく、よほどの自覚がなければ布施もまた難しくなります。

タグ:お経を読む
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2017年06月25日

問い:追善供養って何ですか?

答え:故人が成仏できるように応援することです。

人が亡くなるとお葬式をします。お葬式とは、故人を仏様の弟子にする儀式です。弟子になって初めて、修行して自分自身も仏になる資格を得るのです。お葬式によって、故人は仏になる(成仏する)資格を得ますが、まだ成仏したわけではありません。これから四十九日間をかけて修行(善い行いを)するのです。しかし修行したからといって必ず成仏できるとは限りません。生前、悪い行いが多かった人は、死後も苦の報いを受けることになります。生前の悪行が死後の善行を上回っている時には、閻魔さまの判断で四十九日目に地獄に連行されることもあります。成仏はさせてもらえず、再びこの世に戻されることもあります。

人は誰でも例外なく悪い行い、すなわち命あるものを殺し、嘘を言い、怒りで人を傷つけています。人は一生のうちに数え切れないほどの悪い行いをしているのです。だからこそ、成仏するためには、生前の悪行を上回る善行を積まなければならないというわけです。しかし、故人の修行(善行)だけでは足りないかもしれません。そこで故人の善行に、遺族の善行を追加して、何としても故人に成仏していただくという供養の方法が生まれました。それが追善供養です。「追加の善行」ですから「追善」と言うのです。

では、遺族の善行とは何でしょうか。「故人が成仏できますように」と祈ることだけではありません。もっと現実的な善行です。故人とは無関係でもいいのです。笑顔で人に「おはよう」と挨拶したり、お母さんの家事を手伝ったり、友達の悩みを聞いてあげたりです。自分以外の人が喜んでくれることなら何でも良いのです。あなたが行なった善行の功徳は、故人の成仏を助けることになります。

49日間は意識して善いことをするように、人を喜ばせるようにします。追善供養は、故人を成仏させることの他にもう一つ効果があります。それは、大切な人を亡くしたあなたの悲しみを癒やすことです。仏様は言います。「心の痛みを消し去る方法はただ一つ。人を幸せにすることである」と。故人の成仏を助け、あなたの心の痛みも癒やす、この一石二鳥とも言える功徳を持つのが追善供養なのです。

posted by むしょうさん at 09:56| Comment(0) | 人生相談

2017年06月19日

ツイッター始めました

正雲寺のこと、プライベートなことなどをツイートします。ホームページやブログとは違って、もっともっと気楽な感じでつぶやいていきます。昨日始めたばかりです。ぜひぜひフォローをお願いします!
https://twitter.com/mushosan


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2017年06月17日

自慢しない!悪口言わない!


人は誰でも心の奥底に自己中心性を持っています。エゴと呼ばれるものです。仏教では末那識(まなしき)と言ったりします。このエゴが時々悪さをします。

人に自慢話をすること。「どう?私ってすごいでしょ?」と言われて、心から素直に「うん、すごいね」と答えられる人は多くありません。大抵の人は心の中で「自慢なんかして、嫌な感じ」と思っています。なぜ多くの人が嫌がるようなことを言うのでしょうか。答えは簡単。自慢話をする人は、多くの人が嫌がっているという事実を認めたがらないからです。本当は、自分も、人の自慢話を聞くのは嫌なはずなのに…。分かっているのに事実を認めない。それだけエゴが強いのです。

人の悪口を言うこと。良くないことだと分かっているのに、悪口を言ったり批判したりします。それが嬉しいからです。悪口を言う人も、それを聞く人も「自分はもっとマシな人間だ」とどこかで思っています。自分が優位に立ったような気持ちになります。自分も誰かに悪口を言われているという事実は認めようとしません。これもエゴが強いからです。

こういうことを繰り返していると、人間関係は表面的な付き合いだけになってしまいます。どこにも信頼関係は生まれません。自慢話はしない。人の悪口は言わない。簡単に出来そうなのに、なかなか出来ないのは、あなたのエゴが強すぎるからです。エゴは恐ろしいです。自分の人生だけでなく、人の人生まで破壊します。自慢しそうになったら、悪口を言いそうになったら、すぐに口にチャックをしましょう。それは、あなたがエゴの暴走を一所懸命に食い止めている証拠です。そういう努力をする人は、他人のことを大切に思っている人です。そいう人は、他人からも大切にされます。そこから信頼関係や愛が育っていくのです。

posted by むしょうさん at 07:57| Comment(0) | 人生相談

2017年06月12日

正雲寺のカエルたち

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正雲寺のアオガエルたちは、今年も元気に活動再開です。「きれいな姿だな〜」って思います。お寺は殺生禁止の聖域ですから、彼らものびのびと生活しているんでしょうね。これから夏に向けて、多くの野生動物たちが集まってくることでしょう。楽しみです。写真をクリックして拡大して見てくださいね。

posted by むしょうさん at 08:27| Comment(0) | 日記

2017年05月18日

日曜坐禅のご案内

2017年の日曜坐禅は、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を行います。聞き慣れない方もいらっしゃることでしょう。これはお釈迦様の時代から実践されている仏教伝統の瞑想法です。難しいことは何もありませんのでご安心ください。前半は座る瞑想(サマタ瞑想)です。座りながらある文章を読み続けることで気持ちを落ち着かせます。後半は立つ瞑想(ヴィパッサナー瞑想)です。立つこと自体を一つ一つ自分で実況中継します。自分の動作にだけ集中して、他の雑念を取り払います。実際に、それが皆さまの心にどのように作用するかは、体験してのお楽しみです!

次回開催は、6月11日です。6月から12月までの毎月第2日曜日、午前9時30分より正雲寺会津本山の坐禅堂にて開催いたします。参加費は500円。小学生以下のお子様は無料です。

ご予約は、
0242-28-1110
info@shounji.or.jp
までお願いいたします。

posted by むしょうさん at 12:21| Comment(0) | お知らせ

2017年05月13日

『修証義』 第20節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200−1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
菩提心(ぼだいしん)を起こした人は、たとえ生まれ変わりを繰り返そうとも、その過程はすべて、最終的な涅槃(ねはん)のための準備になります。しかし菩提心を起こさなければ、ただ虚しく生まれ変わりを繰り返すだけで、涅槃の準備にはなりません。ですから、今までの人生を虚しく過ごしてきたと思うなら、命が尽きる前に急いで菩提心を起こしなさい。菩提心とは、たとえ涅槃の境地に入ったとしても、その境地を一人で楽しまず、またそこに安住せず、なおも他人を救おうと努力することです。お釈迦様は俗世間から解脱して、一人涅槃の境地を楽しむことができたのに、そうはせずに虚しく苦しい俗世間にとどまって人を助け続けました。これが菩提心というものです。

【ミニ法話】
菩提心とは、簡単に言えば、自分の利益よりも人の利益を優先するということです。自分の楽しみや喜びは、ひとまず後回しにして、人の楽しみや喜びのために努力することを言います。
仏教は、生命の「生まれ変わり」を説きます。そして、「生まれ変わり」は決して嬉しいことではなく辛いことだと教えます。どんな世界に、どんな姿形で生まれ変わろうとも、老病死の苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、欲しいのに手に入らない苦しみ等が必ず付きまとうからです。ですから、生まれ変わりというサイクルから抜け出て、苦しみのない平穏な世界(これを「涅槃」といいます)に行くことをすすめるのです。その涅槃に行くための唯一の条件は、「菩提心を持つ」ことだと教えているのが本節です。

タグ:お経を読む
posted by むしょうさん at 12:43| Comment(0) | 現代語訳『修証義』

2017年05月10日

【死と向き合う】私の人生は何だったのでしょうか


『死と向き合う』と題して、死に直面した人々の心の声を連載します。これらの声に私たちはどう向き合って、何を答えればいいのでしょうか。死は誰にも平等に訪れます。自分自身の事として、または見送る側の家族として何ができるのかを一緒に考えて参りましょう。

この声の背景には、「自分の人生の意義が分からず虚しく感じる。意義ある人生を送れず後悔している」という嘆きがあります。死を目の前にした時、人は誰でも否応なく自分の人生を振り返ります。その時、多くの人にとって一番の気がかりは「人生の意義」です。

意義とは何でしょうか。「生きた証(あかし)」と言う人もいれば「存在価値」と表現する人もいます。いずれにせよ、一般には「生きている間に、自分は何か価値のあることをしたか」ということではないでしょうか。価値は人によって違います。ビジネスに成功してお金と社会的地位を手に入れることかもしれません。または家族や孫に恵まれることかもしれません。反対に、目に見える形では何も残せず、独りで寂しい思いをしている人もいます。

仏教では、人によって感じたり感じなかったりする価値は説きません。それらは私たちが自分の都合で勝手に作り上げたのであり、大小、高低、優劣、多少といった人との比較が前提になっています。仏教は、人と比較しない絶対的な価値だけを説きます。つまりそれは、「人間としてこの世に生まれる」ということです。

こう言うと「生まれることなんて努力とは関係ない、自分で成し遂げたとは言えない」という反論が聞えてきそうです。現世に限って言えばその通りです。しかし仏教はもっと大きな時間軸で物事を見ます。現世だけでなく、過去世にまでさかのぼって見るのです。あなたは、過去世で何かとても善いことをしたから、そのご褒美として、今こうして人間に生まれることができました。他の生き物、例えば鳥とか牛とかミミズとかに生まれていても不思議ではありませんでした。こんな例え話があります。東京タワーの上からコップ一杯の水を捨てた時、水は細かく別れて霧となり空気中に拡散します。拡散した水が再び集まって、地上に置かれたコップを元と同じように満たすことはほとんどあり得ません。これと同じで、ある人が死んで再び人間に生まれてくることは天文学的に低い確立であって、ほとんどあり得ないのです。

なぜ人間に生まれることがご褒美なのかと言えば、それは、地球上の、星の数ほどある生命の中で、人間だけが真理を学ぶことができるからです。つまり、こういうことが言えます。人生の意義とは、人間として生まれること、そして真理を学ぶこと、この二つなのです。あなたはすでに「人間として生まれる」は達成しています。残る一つ「真理を学ぶ」は、あなたの呼吸が止まる最期の瞬間までトライできることです。

真理とは「すべての命はつながっている。命は孤立することがない」です。そして、真理を学ぶとは、これが自分にとってどういう意味なのかを考えることです。命がつながるとは、互いに影響し合うこと。その中には、人は人を支え、また同時に支えられているという事実が含まれています。真理から見れば、あなたがこれまでどのように生きてきたかは関係ありません。あなたはただ生きているというだけで、すでに誰かを支えているのです。実感がありませんか?それはあなたが、目で見て肌で感じるものしか相手にしない生き方をしてきたからです。そのような窮屈なものの見方から、もっと大らかなものの見方に変えてはどうでしょうか。

人生の意義は、すべての人類に対して平等に、すでに与えられています。多くの人が、すでに達成したものと達成していないものの区別さえできないでいます。人生の意義について、遠くに答えを求めても、そこにはありません。あなたの足元にすでにあるのです。あなたは誰を支えましたか。そして誰に支えられましたか。時間をかけてゆっくりと考えてください。その答えが見つかった時、あなたの人生の意義はすべて達成されます。

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2017年05月02日

問い:子供のお骨を家に置いています。このままでいいですか。


答え:それがあなたの幸せかどうかを考えてください。

お子さんを亡くしたお母さんの中には、子供のお骨をずっと自宅に安置している方がいらっしゃいます。愛しい我が子のそばにずっといたい、申し訳ない気持ちで謝り続けている、そういうお母さん達です。そのお気持ちは、母として、また人としても当然のことで尊い心だと思います。私は、お子さんのお骨を家に置いておくという行為自体は間違っていないと思います。ただ、これとは別に考えていただきたいことがあります。それは、お母さん自身の幸せについてです。

仏教には「執着(しゅうちゃく)」という言葉があります。執着とは、ああしたい、こうしたいという欲が強すぎて、その欲がかえって自分を不幸にしてしまうことです。欲は誰にもあります。ささやかな幸せを保つくらいのほどほどの欲なら良いのです。「一年に一回は家族旅行に出かけたい」とか「地味な服はやめて、明るい服を着て気分を変えたい」とかです。でも、もしこれが「一年に一回ではなく、毎週出かけたい」とか「明るい服でも、シャネルでなきゃダメ」というふうに欲が強くなってしまうと、色々と問題が起きて幸せでいられなくなります。

お母さんの、子供のお骨に対する気持ちもまた同じです。お骨のそばで生活することが、お母さんの心を和(なご)ませ幸せにしてくれるのなら、それもいいでしょう。しかしお骨への思いが強すぎて、いつまでも悲しみから抜け出せなかったり、新しい幸せをつかむ障害になっては困ります。第一、母親のそんな姿を亡くなった子供は見たくないでしょう。

もし現状が、少しでも不安だったり、重荷に感じるようなら、迷わずお骨を手放すべきです。手放すことは別れではありません。縁を切ることでもありません。お母さんとお子さんのそれぞれが新しい幸せをつかむことなのです。目に見える形ではなくても、二人の心はしっかりと結び合っているのですから、何も心配はいりません。お母さんは「この子がいるから、私は幸せになれた」と言えるようになってください。お子さんは「大好きなお母さんが幸せで嬉しい!」ときっと言ってくれるでしょう。

お骨を手放すとは、お墓に埋葬したり、お寺に納骨することです。お寺の役目は、お母さんとお子さんの二人が同じくらい幸せになってもらえるように手助けをすることです。その第一歩は、執着する心を減らすことからです。ご相談はいつでも無料で承ります。一人で悩まないで、どうぞご連絡ください。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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会津正雲寺 0242-28-1110(24時間対応します)
大分正雲寺 097-583-4433(24時間対応します)
水子供養は、福島県と大分県にある二つの正雲寺で承ります。
正雲寺の水子供養 http://shounji.or.jp/mizuko.html


タグ:水子供養
posted by むしょうさん at 09:44| Comment(0) | 人生相談