2017年04月20日

【死と向き合う】どうして私だけこんなに辛い目にあうのでしょうか?


『死と向き合う』と題して、死に直面した人々の心の声を連載します。これらの声に私たちはどう向き合って、何を答えればいいのでしょうか。死は誰にも平等に訪れます。自分自身の事として、または見送る側の家族として何ができるのかを一緒に考えて参りましょう。

人は支え合って生きています。互いに会ったこともない他人同士でさえ、有形無形に支え合って生きています。これは否定のしようのない自然の法則だと言われています。しかし私たちは、残念なことに、自分の目に見えるもの、肌で感じられるものしか認めようとしません。地球の裏側に住む人が自分と何の関わりがあるのかと、初めから疑ってかかる人に、この法則は認めがたいものです。しかし目に見えない、肌に感じないという理由で認めないのなら、まごころや思いやりも認めないことになります。「大切なものほど目に見えない」とは『星の王子さま』の一節です。目に見えないものを信じる心を持ったからといって、私たちが何か損をするでしょうか。私は例え目に見えなくても、私が誰かに支えられていること、そして誰かを支えていることを信じています。その方が幸せを実感できるからです。

なぜ自分だけが辛い思いをするのか。これは、理不尽とも思える苦しみを甘んじて受け入れるだけの意義が見つからないからです。いったん生じた苦しみを無かったことにすることはできません。人にできるのは、苦しみを受け入れるために納得できる意義を探すことだけです。ある実話をご紹介します。ナチス支配下のアウシュビッツ強制収容所に収容されたある夫婦の話です。

別々の部屋に収容された夫婦は、二度と会うことができない、互いの生死すら分からない、明日にはガス室に送られるかもしれないという絶望的な状況にありました。夫は神に祈りました。「私が妻の苦しみの分まで背負います。ですからどうか妻を生き永らえさせて下さい」と。夫は、自分が1日苦しみに耐えることで、明日をも知れない妻の命が1日延びると信じて、それを神との契約として、収容所での苦しみに耐えたのでした。果たして妻が生き永らえたかどうかは分かりません。夫は自分の苦しみに意義を与え、そして希望と勇気を持ってガス室へ向かいました。

人は迫り来る条件を選ぶ自由を持ちません。老いることも、病気になることも、災害にあうことも、自分で選ぶ自由はないのです。しかしそれらの条件をどのような心で受け入れるかを決める自由は持っています。この夫のように、過酷な条件に対しても自分が納得できる意義を見出す自由があります。反対に過酷な条件に絶望し生きる力を失う自由もあるのです。

前述したとおり、人は支え合って生きています。あなたが辛い目にあっているのも、誰かを支えるためかもしれません。あなたが体の痛みや心の苦しみに耐えることで、あなたの大切な人の痛みや苦しみを減らすかもしれません。私は、実際に「私が苦しむ分、妻の苦しみが減ると思えば耐えられます」という言葉を死に直面した人から聞いたことがあります。それは非科学的で妄想的かもしれませんが、苦境に立つ人に確かな希望を与えたのです。仏教は「命と命は互いにつながり合い、決して孤立していない」と説きます。目にも見えず、肌にも感じませんが、自分の命が人の命に役立っていると考えることは、過酷な条件の中で見出すものとしては最善最良かもしれません。みなさんはどうお考えですか?

posted by むしょうさん at 07:44| Comment(0) | 人生相談
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