2017年05月10日

【死と向き合う】私の人生は何だったのでしょうか


『死と向き合う』と題して、死に直面した人々の心の声を連載します。これらの声に私たちはどう向き合って、何を答えればいいのでしょうか。死は誰にも平等に訪れます。自分自身の事として、または見送る側の家族として何ができるのかを一緒に考えて参りましょう。

この声の背景には、「自分の人生の意義が分からず虚しく感じる。意義ある人生を送れず後悔している」という嘆きがあります。死を目の前にした時、人は誰でも否応なく自分の人生を振り返ります。その時、多くの人にとって一番の気がかりは「人生の意義」です。

意義とは何でしょうか。「生きた証(あかし)」と言う人もいれば「存在価値」と表現する人もいます。いずれにせよ、一般には「生きている間に、自分は何か価値のあることをしたか」ということではないでしょうか。価値は人によって違います。ビジネスに成功してお金と社会的地位を手に入れることかもしれません。または家族や孫に恵まれることかもしれません。反対に、目に見える形では何も残せず、独りで寂しい思いをしている人もいます。

仏教では、人によって感じたり感じなかったりする価値は説きません。それらは私たちが自分の都合で勝手に作り上げたのであり、大小、高低、優劣、多少といった人との比較が前提になっています。仏教は、人と比較しない絶対的な価値だけを説きます。つまりそれは、「人間としてこの世に生まれる」ということです。

こう言うと「生まれることなんて努力とは関係ない、自分で成し遂げたとは言えない」という反論が聞えてきそうです。現世に限って言えばその通りです。しかし仏教はもっと大きな時間軸で物事を見ます。現世だけでなく、過去世にまでさかのぼって見るのです。あなたは、過去世で何かとても善いことをしたから、そのご褒美として、今こうして人間に生まれることができました。他の生き物、例えば鳥とか牛とかミミズとかに生まれていても不思議ではありませんでした。こんな例え話があります。東京タワーの上からコップ一杯の水を捨てた時、水は細かく別れて霧となり空気中に拡散します。拡散した水が再び集まって、地上に置かれたコップを元と同じように満たすことはほとんどあり得ません。これと同じで、ある人が死んで再び人間に生まれてくることは天文学的に低い確立であって、ほとんどあり得ないのです。

なぜ人間に生まれることがご褒美なのかと言えば、それは、地球上の、星の数ほどある生命の中で、人間だけが真理を学ぶことができるからです。つまり、こういうことが言えます。人生の意義とは、人間として生まれること、そして真理を学ぶこと、この二つなのです。あなたはすでに「人間として生まれる」は達成しています。残る一つ「真理を学ぶ」は、あなたの呼吸が止まる最期の瞬間までトライできることです。

真理とは「すべての命はつながっている。命は孤立することがない」です。そして、真理を学ぶとは、これが自分にとってどういう意味なのかを考えることです。命がつながるとは、互いに影響し合うこと。その中には、人は人を支え、また同時に支えられているという事実が含まれています。真理から見れば、あなたがこれまでどのように生きてきたかは関係ありません。あなたはただ生きているというだけで、すでに誰かを支えているのです。実感がありませんか?それはあなたが、目で見て肌で感じるものしか相手にしない生き方をしてきたからです。そのような窮屈なものの見方から、もっと大らかなものの見方に変えてはどうでしょうか。

人生の意義は、すべての人類に対して平等に、すでに与えられています。多くの人が、すでに達成したものと達成していないものの区別さえできないでいます。人生の意義について、遠くに答えを求めても、そこにはありません。あなたの足元にすでにあるのです。あなたは誰を支えましたか。そして誰に支えられましたか。時間をかけてゆっくりと考えてください。その答えが見つかった時、あなたの人生の意義はすべて達成されます。

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posted by むしょうさん at 08:51| Comment(0) | 人生相談
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