2021年02月27日

人生の穴と向き合う

 人生には、ある日突然、思いがけず穴が開くことがあります。重い病気を患ったり、事故に遭ったり、大切な人を失ったりします。他人の無理解やひどい仕打ちで開く穴もあります。毎日の生活の中で私たちが経験する悲しいことや苦しいことがそうです。できることなら穴は開けたくありませんが、残念ながらそうはなりません。私たちは必ず開いてしまうこの穴に対してどうように向き合えばいいのでしょうか。

 穴の前では、茫然とする人、嘆き悲しむ人、腹を立てる人、自暴自棄になる人がいます。ありがたくも嬉しくもない穴ですから、気持ちが荒(すさ)んでしまうのは無理もありません。しかし他方では、気持ちが荒んでいくのを止めて、穴を見つめながら考える人もいます。その人は、荒んだ気持ちを長く持ち続けても、結局は自分の心と体をボロボロにするだけだと知っています。そして驚くことに、この思いがけず開いてしまった穴に顔を近づけて「穴が開く前には見えなかったけれど、こうして穴が開いたからこそ見える風景、今まで見たこともないような風景がきっと広がっているはずだ」と期待感を持って言うのです。その人は人並外れた忍耐力を持っているわけでも、底抜けの楽観主義者というわけでもありません。ただ一つの真実「すべての物事の意味は自分の心が作り出している」ということを知っていたのです。自分の心がけ次第でマイナスの意味付けもできるし、プラスの意味付けもできるということをです。

 先日、友人から手紙が届きました。その手紙には、友人のお母様が痴呆症のために、自分の名前も生い立ちも、これまでの人生の出来事もすべて忘れ去ってしまったようだと書かれてありました。私は、友人がお母様をとても大切に思っていることを知っていましたので、さぞ心中はお辛いことだろうと思いました。ところが手紙の最後には「日に日に心が軽くなっていく母を羨ましいと思うことがあります。色々と忘れてしまうことは神様からの最後の贈り物かもしれません」と書かれていました。なってしまった病いを恨み続けるのではなく、開いてしまった穴から、穴が開くまでは見えなかったものを見ようとする意思、穴が開いたことのプラスの意味を知ろうとする謙虚さが記されていました。おそらく友人はこの心がけによって、平穏な心でお母様と濃密な時間を過ごすことでしょう。

 物事の意味を決めるのは自分の心です。どんなに防御をしても、必ず開いてしまう穴です。生きていく中ではきっとたくさんの穴が開くことでしょう。それならば上手に付き合っていく方が良いに決まっています。自分を暗い気持ちにさせる意味より明るい気持ちにさせる意味を選ぶ方が賢明というものです。私たちはどちらも自由に選べるのですから。

 私たちは、何か事があるごとに神様や仏様にお願い事をします。「健康でありますように」「合格しますように」「成功しますように」といった具合にです。私たちはいつも「欲しいもの」をお願いします。しかし神仏が私たちにお授けになるのは「必要なもの」です。もしかすると、健康を願う人には病いを、合格を願う人に不合格を、成功を願う人には失敗をお授けになるかもしれません。そうだとすると、神仏はそれらが私たちに必要だと判断されたからです。悲しみや苦しみの中でさえ、その人が開いた穴から新しい風景を見ることができる人だと信じておられるのです。私は悲しい時や苦しい時は、この状況が今の私に必要なのだと思うようにしています。そしてこの状況の中で嘆き悲しむこと以外にどんな風景が見えるのか、私を人として成熟させるようなプラスの意味を探すようにしています。

posted by むしょうさん at 11:38| Comment(0) | 人生相談

2020年07月12日

ご奉仕のすすめ

お寺には、建物内外の掃除をしてくれたり、土木作業を手伝ってくれたり、定期的にお花を持参して飾ってくださる方々がいます。アルバイトやパートのお仕事ではありません。お寺からは一度もお金を出したことがないのです。それどころか、皆さん手弁当で、ご自分のお金と時間を使って来て下さいます。このような献身的な行為は、今は「災害ボランティア」の中によく見られますね。しかしお寺では日常の光景です。

お寺ではこれを「ご奉仕(ほうし)」と呼んでいます。私心を捨てて、他のために力を尽くすことです。相手は神仏や故人です。よく耳にするのは「私が今こうしていられるのは仏様のおかげです。これぐらいはさせてください」という声や「故人がきっと喜んでくれると思います」といった声です。

私心を捨てるとは、損得や効率を考えるのをやめるということです。この労働がいくらのお金になるのか、どうやれば少ない労力で効率が上がるかとは考えません。ただ相手の喜びや幸福だけを願うのです。1円にもならなくても、効率が悪くても構わない、相手が喜んでくれればそれで良い。そういう風に、普通の賃金労働とは異なる価値観で成り立っているのがご奉仕です。

しかしご奉仕は、思わぬ利益をもたらします。それは心が清らかになることです。すがすがしい気持ちと充実感をもたらします。仏教は心を清らかにすることを第一義にします。心が清らかなら、すべての幸福が手に入るからです。この多大な利益を考えると、「他のため」と言いながら、実は自分のためでもあるのです。

ご奉仕をしてくださった方に、私たち僧侶は「ありがとう」とは言わない約束です。ご奉仕は、自分の心を清めるための正精進(しょうしょうじん:正しい修行)だからです。もし言うとすれば、「ご精進、ご苦労さまです」でしょうか。ただ実際には「ありがとう」と言ってしまいますね。言わずにはいられないのです。ご奉仕をしている姿は、どなたも光り輝いています。その様子を見れば「尊い姿を見せてくれてありがとう」となります。

皆様にもご奉仕をおすすめします。家庭でも会社でもできることです。「そんな1円にもならないことを…」というお考えの方もいらっしゃることでしょう。1円を稼ぐことはとても大切です。しかし、人生にはそれ以上に大切なことがあります。それは汚れている心を清めることです。人間が成熟するとは、お金持ちになることではありません。自分の心がどれほど汚れているかをよく知って、少しでも清らかになるよう努力し、その清らかなら心で周りの人たちの幸福に貢献することです。


【これもチェック!】
仏教の第一義は「自浄其意:じじょうごい」です。「自分で自分の心を清めること」です。もしこの努力を段階分けするなら次のようになるでしょう。「ご奉仕」はAとCに相当します。

@ 汚れている心を認識する。
A 汚れを取り除く努力をする。
B 汚れが取れて清らかになる。
C 清らな状態を保つ努力をする。

皆様のご精進を応援します!

posted by むしょうさん at 10:55| Comment(0) | 人生相談

2020年03月05日

死にたいと思っているあなたへ(改訂版)

こんにちは。無聖(むしょう)です。あなたは「死にたい」と思っているのですね。私にも覚えがあります。きっと多くの人が同じ経験を持っていると思いますよ。あなたは「死にたい」という思いと一緒に「どうして生きなければならないのか?」と思っているかもしれませんね。実は、これはとても難しい質問なんです。ちゃんと答えられる人は少ないと思います。

今から2500年ほど前、今のインドとネパールの国境あたりにシャカ族という部族が暮らしていました。このシャカ族の中にゴータマ・シッダールタという名前の王子がいました。私たち僧侶は、尊敬の念を込めて、この王子のことを「おシャカさま」とか「ブッダ」と呼んでいます。そう、仏教を作った人です。このおシャカさまが「どうして生きなければならないのか?」という質問に対して、すぐに答えることはしないで、私たちが自分で答えを見つけられるようにヒントを与えてくれました。人から聞いて答えを知るより、自分で考えて答えを見つけた方がずっと役に立つからです。おシャカさまはこう言いました。


「この世界では、すべてが互いに依存しあっている。
これは誰にも変えられない真実である」


この言葉をヒントに考えてみましょう。まず最初に「縁起世界(えんぎせかい)」という言葉を覚えてください。これは、おシャカさまの言葉のとおり「すべてが互いに依存しあっている世界」のことです。ここで言う「すべて」には、生き物だけではなく物や現象も含まれているのですが、今は生き物に限ってお話しします。言い換えると、縁起世界とは「すべての生き物はお互いに頼り合って生きている。相手がいるから自分が存在し、また自分がいるから相手も存在する。反対に、相手がいなければ自分は存在せず、また自分がいなければ相手も存在しない。このような関係だけがある世界」ということになります。縁起世界は、どこか遠い夢の世界のことではありません。私たちが今生きているこの世界の本当の姿のことを指しています。縁起世界では、生き物は皆お互いに頼り合っているので、「一人ぼっち」ということがありません。しかし、そうは言っても、現実には一人ぼっちを感じることが多いですよね。あなたもきっとそうでしょう。それは、縁起世界はなかなか目立たなくて、想像力や観察力をフル回転して「よし、見るぞ!」と真剣に見なければ見えないからです。ちょっと見たぐらいでは縁起世界は見えません。さあ、それではゆったりした気持ちで、でも真剣に、頭の中でイメージを膨らませながら、この世界の本当の姿を見てみましょう。

正雲寺(しょううんじ)は、山の中にあります。山には大きな木がたくさん立っています。その内の一本を見てみましょう。太い幹からは数えきれないぐらいのたくさんの枝が伸びています。そしてその一本一本の枝には、これまたたくさんの葉っぱが付いています。その内の一枚を見てみましょう。春になると枝から小さな芽が出て、やわらかくみずみずしい黄緑色の葉っぱが広がります。夏になると濃い緑色になって、今度は固く強そうな葉っぱに変身します。秋になると緑色は薄い黄色に変化し、オレンジ色になったかと思うとすぐに真っ赤に変わります。冬が訪れると赤色はうす茶色に変化し、水気を失って小さく縮みます。やがて自然に枝から離れて地面に落ちて行きます。地面に落ちた葉っぱは、昆虫や微生物の格好の食物です。彼らはそこでたくさんのフンをします。それらがまた栄養いっぱいの土を作るのです。この土は太い幹をさらに太くします。土からたくさんの養分を吸い上げた幹は、春になると再び枝を伸ばし、たくさんの葉っぱを茂らせるのです。葉っぱも昆虫も微生物も木の幹もみんなお互いに頼り合っています。もっと言えば、葉っぱが季節ごとに色や姿を変えるのも太陽や雨や風や雪に頼っているからです。こうして見ると、今まで見過ごしてきた生き物たちや自然の営みは、縁起世界そのものだということが分かります。これが、この世界の本当の姿です。人間だけがそこから外れて生きていると考えるのは、とても不自然なことなのです。

あなたも昆虫や微生物と同じように、この縁起世界を構成している一つの大切な要素です。あなたが生きているから、別の命も生きていられるのです。土の中の微生物には木の枝が見えないように、あなたの目には見えないかもしれません。しかし、あなたによって生かされている命がどこかに必ずあるのです。もし目の前に「私はあなたのおかげで生きていられます」と言う人が現れたとしたら、それはとても幸運なことです。しかしそんなことを言ってくれる人がいなくても、あなたが生きているから別の命も生きていられるという事実は変わりません。なぜなら、自然の営みが示すように、またおシャカさまのヒントにもあるように、これは「誰にも変えられない真実」だからです。この「誰にも変えられない真実」のことを「真理」と呼んでいます。この言葉も覚えてくださいね。真理は決して変わらないし、無くなることもありません。ですから、真理に抵抗したり、また真理にケンカを売ったりするのは無駄なことです。決して勝ち目はないのですから。私たちの生老病死も大切な真理です。生まれること・老いること・病気になること・死ぬことの四つは、誰にも変えられないし、無くなることもありません。抵抗してもケンカを売っても勝負にならないことは、皆さんもよくご存知ですよね。

真理は、人の意思とは関係なく存在し働いています。縁起世界の中で生かされている命も、意思に関係なく存在し働いています。命は「すべてが互いに依存し合っている」という真理に従って存在し働いているだけで、人の意思とは関係ありません。ところが私たちは、自分の意思と自分の力で生きていると思っています。それは勘違いなのです。私たちはこの縁起世界の中で、数えきれない量の「私以外のもの達」から支えられて生かされているのです。

生きる価値とは何でしょう。人生の意義とは何でしょう。あなたはどうして生きなければならないのでしょう。その答えはもう明らかです。それは「あなたが別の命にとって必要だから」です。あなたがあなた以外のもの達から支えられているのと同じように、人もその人以外のもの達から支えられています。この中にはあなたも含まれているのです。あなたは「他に大勢いるんだから、私一人いなくても・・・」と考えるかもしれませんね。縁起世界では、無視してもいい命というのはありません。一つ一つがちゃんと役目を担っていて、それぞれが欠かすことができない大切な存在なのです。

命は人の意思で終わらせるものではありません。真理に従って、終わるべき理由がある時に終わるのです。その時とは、一つの命の終わりが別の命を支える時です。あなたは、青々とした夏の葉っぱが自分の意思で枝から離れるのを見たことがありますか。それはとても不自然な姿です。人がその時を待たずに自分の意思で命を終わらせるのも、やはり不自然な姿です。葉っぱは終わるべき理由がある時、その時を待ってから自然な形で枝から離れるのです。人も同じです。

自殺をしてはいけません。あなたは大切な人です。本当は、あなたがいなければ困ると言う人が周りにはたくさんいるのです。しかし困ったことに、周りの人はそれに気付きません。みんな自分のことばかり考えているから、あなたに目が向かないのです。だから今あなたが「誰にも必要とされていない」と感じたとしても少しも変ではありません。でも忘れないでください。たとえ皆が気付かなくても、あなたは大切な人です。それは誰にも変えられない真実です。今あなたが生活している環境では、たまたま真実が見えづらくなっているだけです。今の環境から少し離れてみてください。今、自分が生きている世界から距離を置いて見ましょう。狭い井戸の中で、あても無く、ただもがいているだけだということが分かります。井戸の外には大きくて広い海があります。そこには、縁起世界の中で生きる意味を知り、無理なく自然に人生を楽しむ本当のあなたがいます。

重たい腰を上げて、本物の海を見に行ったり、旅行に出かけるのもいいですね。会津若松の正雲寺に来てくれてもいいですよ。私と一緒に井戸の外の話をしましょう。

posted by むしょうさん at 09:57| Comment(0) | 人生相談

2018年06月08日

「利他はうんざり!」

そう言って若い僧侶が怒っていました。ちなみに「利他(りた)」というのは、仏教の教えで、選り好みせずに有縁の人々を幸福へ導くことを言います。仏弟子(僧侶)の重要な使命であり、日々の実践徳目でもあります。

その若い僧侶の言い分は「○○さんの幸福のために、どうして私が自分の人生を犠牲にしなくちゃいけないんですか!?」というものでした。彼が○○さんのことを嫌っているのは明らかです。自分の好き嫌いで相手を選んでいること、自分が損をすると思い込んでいること、この二つで、彼が「利他」を理解していないことが分かります。

好きな人のために犠牲になることは誰でもできます。そんな誰でもできることをしても、迷いからの解脱や真の幸福は手に入りません。嫌いな人の幸せを願う心があって初めて手に入るのです。聖書には「汝の敵を愛せ」とあります。同じことです。そして利他は人のためだけではなく、自分のためであることを知らなければなりません。修証義という経典には「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」とあります。俗に言う「情けは人のためならず(自分のため)」です。

もちろん簡単なことではありません。修行の自覚がなければ、続けるのは難しいでしょう。その若い僧侶は、困っている人がいたら口よりも先に体が動くような人で、十分に気持ちの優しい、行動力のある人です。そんな彼ですが、利他はできません。それは利他が確かな修行の先に実現するものだからです。

これは私も時々直面する問題です。そんな時私は釈尊の言葉を思い返します。それは「他人のすることしないことを見るな。自分のすることしないことだけを見よ」という言葉です。善いことをする時は、相手の反応や態度を気にせず、一切の見返りを望まず、やったことの中身を誇示せず、やった自分を誇らない、という意味です。ただ、自分は善に照らして何をしたか、何をしなかったかだけを自問すれば良いのです。これが確かな修行です。私はこの修行の中で一進一退を繰り返しています。この先に利他の心がありますが、まだ遠い道のりのように感じています。若い彼が悩むのも無理もないことです。

posted by むしょうさん at 11:20| Comment(0) | 人生相談

2018年06月05日

問い:苦しみはどこから来ますか?

答え:私たちの所有欲からです。

苦しみは、すべてのものに対して「自分のもの」と思い込んで、それに執着することから生じます。すべてのものはただ変化し消滅するだけのものなのに、私たちは不変不滅を望みます。そしてその望みは決して叶えられません。そこに苦しみが生じます。一番身近な例は自分の体です。誰もが自分の体は自分のものだと思い込んでいます。ところが、所有物にもかかわらず、私たちは皺や白髪が増える老化を一秒も止めることができません。病気になることも死ぬこともそうです。いつまでも若くいたい、死にたくないと望んでも、結局は失望することになります。何一つ思いどおりにはならないのです。これで本当に自分のものと言えるでしょうか。もともと所有できないものを所有しようと無駄な努力をしているように見えます。

所有欲の正体は「自分の思いどおりにしたい」という心です。しかし実際には何一つ思いどおりにはなりません。自分の体一つ思いどおりにできないのに、どうして他のものを思いどおりにできるでしょうか。苦しみを減らすには、この世のものはただ変化し消滅するもの、何事も自分の思いどおりにはならず、所有することはできないと思い直すことです。愛する人、愛する人の心についても同じです。

「自分のものではない」と思い直すことは、心が冷めたり、諦めたり、人のことなどどうでもいいと投げやりになることとは違います。むしろ逆です。それは、特定の人に執着するのをやめて、全ての人に対して平等に慈しみの目を向けるということです。私は私のものではなく、彼も彼のものではありません。全ての人が無常の世界に住みながら常住を求めて苦しんでいます。皆が同じ境遇にあるのです。私たちは同じ悲しみを背負った同胞です。互いに憐れみ、優しくしあうのが自然な姿と言えるでしょう。


posted by むしょうさん at 13:34| Comment(0) | 人生相談

2018年05月04日

問い:私は何のために生まれてきたのですか?

答え:別の命を支えるためです。

ですから、別の命を支える生き方をしましょう。それが自然な生き方です。その生き方で、あなたは必要十分な幸せを得られます。これ以外の生き方、自分の命のためだけに生きる生き方は、不自然な生き方です。この生き方では、一時の喜びは得られても、幸せは得られません。自分が何のために生まれてきたのかを知れば、生き方は自然に定まります。

これは、仏教の根本思想「縁起」に基づくお話しです。縁起では、全ての命はつながり合い、支え合っているとします。ある命は、別の命の支えによって成立しています。一つの命が、他とつながりを持たずに単独で存在することはありません。

posted by むしょうさん at 08:31| Comment(0) | 人生相談

2018年04月10日

【心の僧談】水子供養

正雲寺に寄せられるお悩みの一つに人工中絶の問題があります。多くのお父さんお母さんが罪の意識に苦しんでいます。この罪とどのように向き合い、そして乗り越えていくのか、水子供養を例に考えたいと思います。



タグ:水子供養
posted by むしょうさん at 07:18| Comment(0) | 人生相談

2018年03月12日

強情な人との向き合い方

正雲寺は人里離れた山寺で、周囲には山と川があるだけです。毎日ここで自然の移り変わりを見ていると、時々「なるほど、そうだったのか!」とハッとすることがあります。それは、当たり前のことだったり、すでに言い古されたことだったりします。それなのに、今になって急に胸に迫り、強く心に刻まれることがあるのです。それは「知る」ではなく「気づく」ということなのでしょう。

この冬もたくさんの雪が積もりました。12月から2月までの三ヶ月間は、毎日が除雪作業です。雪の下の方はすで氷の塊となっていて、力任せにツルハシを振ってもはね返されるばかり。その度に氷の破片が顔に飛んで来て痛い思いをします。なかなか作業は進まず、私はますますむきになってしまいます。それはまるで氷の塊と格闘しているようです。

3月になると春が訪れます。太陽は日射しを強め、それに応えるように地面は生気を取り戻します。春の陽気が、重い氷を見る見るうちに溶かして行きます。私が何日もかけて格闘した氷を、太陽はわずか数時間で溶かしてしまいました。しかもとても平和的にです。太陽が「さあ、そろそろ春の日射しを届けよう」と言えば、氷は「ではそろそろ私はおいとまします」と答えるのです。両者は穏やかに向き合って格闘などしません。

人は「人間も自然の一部」などと言いながら、自然の営みに真実を見ようとはせず、自分勝手な解釈を探そうとします。しかしそれはいつでも遠回りに終わったり、無駄に終わったりします。人間が自然の一部なら、私たちも自然の営みと同じであるべきだと思うのです。そこに見える真実のとおりに生きられれば、遠回りも無駄もありません。自然の営み中にある真実は、木で例えるなら、幹の部分です。一方、自分勝手な解釈は枝葉に過ぎません。もしかすると枝葉でさえないかもしれません。

強情な人と向き合う方法は、太陽が氷にするように、春の日射しを届けることです。力任せにツルハシを振るうのは、表面のわずかな部分を削るばかりで、とても長い時間がかかります。途中で抵抗にあって、痛い思いをするかもしれません。決して得策とは言えませんね。強情な人は、いわば氷の塊です。その氷を溶かすのは、あなたが放つ春の日射しです。時々、ツルハシで割れ目を入れるのも良いかもしれません。溶けるのが速くなります。しかしツルハシを入れるポイント、即ち「氷の目」を心得ていないと割れ目は入れられません。もしあなたに心得がないなら、手当たり次第にツルハシを振るうことはせず、ただ暖かな春の日射しを注ぎ続けてください。そしてその日差しが強ければ強いほど、氷が溶けるのも速いことを知っておいてください。

自然の営みは、すぐに答えを求めようする私たちには、まどろこしく見えます。しかし本当は、最も合理的で、一番の近道で、そして何よりも平和的な姿なのです。

posted by むしょうさん at 12:08| Comment(0) | 人生相談

2018年02月16日

問い:マイナスの感情を消し去るには?

答え:心の中にいくつも引き出しを持ちましょう。

人には誰にも言えない感情があります。自分を幸せにする感情なら良いですが、悲しみ、怒り、恨みといったマイナスの感情は厄介です。放っておくと心も体もむしばまれてしまいます。人はこのマイナスの感情によって、人生を左右するような大事な決断をしてしまうことがあります。勢いで会社に辞表をて叩きつけたり、勢いで言ってはならない言葉を吐いたり、勢いで自死を選ぶことがあります。後悔してもすでに手遅れです。マイナスの感情は、人の正気を失わせ、人生を狂わせるほど激しく強いのです。

こうしたマイナスの感情を心の中から消し去りたいと思うのは当然です。「楽になりたい」という願いと、「このままでは自分は過ちを犯しかねない」という危機感がそうさせるのでしょう。多くの人がこの思いを抱いています。ところが現実には、「消したくても消せない」ままずっと苦しみ続けます。

マインドフルネスは古くからマイナスの感情を消し去る方法として実践されてきました。正しい精神集中によって、起きている現象の中にある真実を観察し思考の転換を図る努力です。仏教でも「正念」と呼んで大切にしています。これができる方はそれでいいのですが、多くの方は漫然としてただ悩み続けます。私はそうした方々に「心の中にいくつも引き出しを持ちましょう」とお答えしています。

消し去れないのなら、ひとまず持っておくしかありません。心の中の「苦しみ」と書かれた引き出しにしまっておいてください。それでも苦しいのは、あなたが引き出しを一個しか持っていないからです。一個しか持っていないから、頻繁に引き出しを開けて中を覗いてしまうのです。もしこれが、いくつも引き出しを持っていたらどうでしょう。一つの引き出しには「私の夢のため」と書かれています。また別の引き出しには「愛する人のため」と書かれています。そして一番大きな引き出しには「乗り越えたこと」と書きましょう。

マイナスの感情を引き出しにしまっておくということは、黙って耐えるということに他なりません。多くの人は耐えることが嫌いです。もっとほかの方法はないかといつも探し回っています。しかしどこにもありません。ブッダは「忍耐は、苦行の中の苦行。耐える者は常に勝利者である」と語っています。

あなたは、耐えている間は一触即発の状態にあります。まるで爆弾です。誰かが言った他愛のない言葉が導火線に火をつけることもあります。とても危険な状態です。ですから、人里離れた場所で一人静かにしていてください。それができないなら、黙っていましょう。もし口を開けば、悪言が飛び出すからです。これは正しく苦行です。その時に別の引き出しを持っていれば、この苦行を乗り越えることができます。今の苦行は、私の夢のため、そして愛する人のためなのです。

この苦行を繰り返すうちに、「乗り越えたこと」と書かれた引き出しは、「乗り越えたこと」でいっぱいになっていきます。いつしかマイナスの感情をコントロールする術が身についています。思い通りにコントロールできるということは、決して振り回されないということ、支配されないということです。そしてこれは、心の中からマイナスの感情を消し去ったも同じなのです。

時々「乗り越えたこと」と書かれた引き出しの中を覗いてみましょう。フォルダーの厚みは今どれくらいですか。1センチですか。それとも2センチですか。フォルダーの厚みはそのままあなたの苦歴です。学歴や職歴などとは比較にならないほど、人生に深みと輝き与えてくれることでしょう。

posted by むしょうさん at 11:58| Comment(0) | 人生相談

2018年01月02日

問い:善悪の基準がわかりません。

答え:仏教の答えは明快です。

他人が喜ぶことは善、自分だけが喜ぶことは悪です。正不正についても同じです。他人が喜ぶこととは、人(生きとし生けるもの)を傷つけることはしない、そのために自分の身を慎むということです。仏教では10項目を挙げています。年始にあたり、皆さまの今年一年の抱負にしていただければと思います。全部は無理でも、「これだけは守り通すぞ!」というものを見つけてくださいね。

@ 興味本位で命を奪わない。
A 人のものを盗まない。
B 道徳に反した性欲を持たない。
C 嘘を言わない。
D 酒に溺れない。
E 人の過ちを責めない。
F 自分を誇り、人を見下げない。
G もの惜しみしない。
H 怒らない。
I 人が信じるものを批判しない。

posted by むしょうさん at 07:03| Comment(0) | 人生相談