2020年03月05日

死にたいと思っているあなたへ(改訂版)

こんにちは。無聖(むしょう)です。あなたは「死にたい」と思っているのですね。私にも覚えがあります。きっと多くの人が同じ経験を持っていると思いますよ。あなたは「死にたい」という思いと一緒に「どうして生きなければならないのか?」と思っているかもしれませんね。実は、これはとても難しい質問なんです。ちゃんと答えられる人は少ないと思います。

今から2500年ほど前、今のインドとネパールの国境あたりにシャカ族という部族が暮らしていました。このシャカ族の中にゴータマ・シッダールタという名前の王子がいました。私たち僧侶は、尊敬の念を込めて、この王子のことを「おシャカさま」とか「ブッダ」と呼んでいます。そう、仏教を作った人です。このおシャカさまが「どうして生きなければならないのか?」という質問に対して、すぐに答えることはしないで、私たちが自分で答えを見つけられるようにヒントを与えてくれました。人から聞いて答えを知るより、自分で考えて答えを見つけた方がずっと役に立つからです。おシャカさまはこう言いました。


「この世界では、すべてが互いに依存しあっている。
これは誰にも変えられない真実である」


この言葉をヒントに考えてみましょう。まず最初に「縁起世界(えんぎせかい)」という言葉を覚えてください。これは、おシャカさまの言葉のとおり「すべてが互いに依存しあっている世界」のことです。ここで言う「すべて」には、生き物だけではなく物や現象も含まれているのですが、今は生き物に限ってお話しします。言い換えると、縁起世界とは「すべての生き物はお互いに頼り合って生きている。相手がいるから自分が存在し、また自分がいるから相手も存在する。反対に、相手がいなければ自分は存在せず、また自分がいなければ相手も存在しない。このような関係だけがある世界」ということになります。縁起世界は、どこか遠い夢の世界のことではありません。私たちが今生きているこの世界の本当の姿のことを指しています。縁起世界では、生き物は皆お互いに頼り合っているので、「一人ぼっち」ということがありません。しかし、そうは言っても、現実には一人ぼっちを感じることが多いですよね。あなたもきっとそうでしょう。それは、縁起世界はなかなか目立たなくて、想像力や観察力をフル回転して「よし、見るぞ!」と真剣に見なければ見えないからです。ちょっと見たぐらいでは縁起世界は見えません。さあ、それではゆったりした気持ちで、でも真剣に、頭の中でイメージを膨らませながら、この世界の本当の姿を見てみましょう。

正雲寺(しょううんじ)は、山の中にあります。山には大きな木がたくさん立っています。その内の一本を見てみましょう。太い幹からは数えきれないぐらいのたくさんの枝が伸びています。そしてその一本一本の枝には、これまたたくさんの葉っぱが付いています。その内の一枚を見てみましょう。春になると枝から小さな芽が出て、やわらかくみずみずしい黄緑色の葉っぱが広がります。夏になると濃い緑色になって、今度は固く強そうな葉っぱに変身します。秋になると緑色は薄い黄色に変化し、オレンジ色になったかと思うとすぐに真っ赤に変わります。冬が訪れると赤色はうす茶色に変化し、水気を失って小さく縮みます。やがて自然に枝から離れて地面に落ちて行きます。地面に落ちた葉っぱは、昆虫や微生物の格好の食物です。彼らはそこでたくさんのフンをします。それらがまた栄養いっぱいの土を作るのです。この土は太い幹をさらに太くします。土からたくさんの養分を吸い上げた幹は、春になると再び枝を伸ばし、たくさんの葉っぱを茂らせるのです。葉っぱも昆虫も微生物も木の幹もみんなお互いに頼り合っています。もっと言えば、葉っぱが季節ごとに色や姿を変えるのも太陽や雨や風や雪に頼っているからです。こうして見ると、今まで見過ごしてきた生き物たちや自然の営みは、縁起世界そのものだということが分かります。これが、この世界の本当の姿です。人間だけがそこから外れて生きていると考えるのは、とても不自然なことなのです。

あなたも昆虫や微生物と同じように、この縁起世界を構成している一つの大切な要素です。あなたが生きているから、別の命も生きていられるのです。土の中の微生物には木の枝が見えないように、あなたの目には見えないかもしれません。しかし、あなたによって生かされている命がどこかに必ずあるのです。もし目の前に「私はあなたのおかげで生きていられます」と言う人が現れたとしたら、それはとても幸運なことです。しかしそんなことを言ってくれる人がいなくても、あなたが生きているから別の命も生きていられるという事実は変わりません。なぜなら、自然の営みが示すように、またおシャカさまのヒントにもあるように、これは「誰にも変えられない真実」だからです。この「誰にも変えられない真実」のことを「真理」と呼んでいます。この言葉も覚えてくださいね。真理は決して変わらないし、無くなることもありません。ですから、真理に抵抗したり、また真理にケンカを売ったりするのは無駄なことです。決して勝ち目はないのですから。私たちの生老病死も大切な真理です。生まれること・老いること・病気になること・死ぬことの四つは、誰にも変えられないし、無くなることもありません。抵抗してもケンカを売っても勝負にならないことは、皆さんもよくご存知ですよね。

真理は、人の意思とは関係なく存在し働いています。縁起世界の中で生かされている命も、意思に関係なく存在し働いています。命は「すべてが互いに依存し合っている」という真理に従って存在し働いているだけで、人の意思とは関係ありません。ところが私たちは、自分の意思と自分の力で生きていると思っています。それは勘違いなのです。私たちはこの縁起世界の中で、数えきれない量の「私以外のもの達」から支えられて生かされているのです。

生きる価値とは何でしょう。人生の意義とは何でしょう。あなたはどうして生きなければならないのでしょう。その答えはもう明らかです。それは「あなたが別の命にとって必要だから」です。あなたがあなた以外のもの達から支えられているのと同じように、人もその人以外のもの達から支えられています。この中にはあなたも含まれているのです。あなたは「他に大勢いるんだから、私一人いなくても・・・」と考えるかもしれませんね。縁起世界では、無視してもいい命というのはありません。一つ一つがちゃんと役目を担っていて、それぞれが欠かすことができない大切な存在なのです。

命は人の意思で終わらせるものではありません。真理に従って、終わるべき理由がある時に終わるのです。その時とは、一つの命の終わりが別の命を支える時です。あなたは、青々とした夏の葉っぱが自分の意思で枝から離れるのを見たことがありますか。それはとても不自然な姿です。人がその時を待たずに自分の意思で命を終わらせるのも、やはり不自然な姿です。葉っぱは終わるべき理由がある時、その時を待ってから自然な形で枝から離れるのです。人も同じです。

自殺をしてはいけません。あなたは大切な人です。本当は、あなたがいなければ困ると言う人が周りにはたくさんいるのです。しかし困ったことに、周りの人はそれに気付きません。みんな自分のことばかり考えているから、あなたに目が向かないのです。だから今あなたが「誰にも必要とされていない」と感じたとしても少しも変ではありません。でも忘れないでください。たとえ皆が気付かなくても、あなたは大切な人です。それは誰にも変えられない真実です。今あなたが生活している環境では、たまたま真実が見えづらくなっているだけです。今の環境から少し離れてみてください。今、自分が生きている世界から距離を置いて見ましょう。狭い井戸の中で、あても無く、ただもがいているだけだということが分かります。井戸の外には大きくて広い海があります。そこには、縁起世界の中で生きる意味を知り、無理なく自然に人生を楽しむ本当のあなたがいます。

重たい腰を上げて、本物の海を見に行ったり、旅行に出かけるのもいいですね。会津若松の正雲寺に来てくれてもいいですよ。私と一緒に井戸の外の話をしましょう。

posted by むしょうさん at 09:57| Comment(0) | 人生相談

2018年06月08日

「利他はうんざり!」

そう言って若い僧侶が怒っていました。ちなみに「利他(りた)」というのは、仏教の教えで、選り好みせずに有縁の人々を幸福へ導くことを言います。仏弟子(僧侶)の重要な使命であり、日々の実践徳目でもあります。

その若い僧侶の言い分は「○○さんの幸福のために、どうして私が自分の人生を犠牲にしなくちゃいけないんですか!?」というものでした。彼が○○さんのことを嫌っているのは明らかです。自分の好き嫌いで相手を選んでいること、自分が損をすると思い込んでいること、この二つで、彼が「利他」を理解していないことが分かります。

好きな人のために犠牲になることは誰でもできます。そんな誰でもできることをしても、迷いからの解脱や真の幸福は手に入りません。嫌いな人の幸せを願う心があって初めて手に入るのです。聖書には「汝の敵を愛せ」とあります。同じことです。そして利他は人のためだけではなく、自分のためであることを知らなければなりません。修証義という経典には「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」とあります。俗に言う「情けは人のためならず(自分のため)」です。

もちろん簡単なことではありません。修行の自覚がなければ、続けるのは難しいでしょう。その若い僧侶は、困っている人がいたら口よりも先に体が動くような人で、十分に気持ちの優しい、行動力のある人です。そんな彼ですが、利他はできません。それは利他が確かな修行の先に実現するものだからです。

これは私も時々直面する問題です。そんな時私は釈尊の言葉を思い返します。それは「他人のすることしないことを見るな。自分のすることしないことだけを見よ」という言葉です。善いことをする時は、相手の反応や態度を気にせず、一切の見返りを望まず、やったことの中身を誇示せず、やった自分を誇らない、という意味です。ただ、自分は善に照らして何をしたか、何をしなかったかだけを自問すれば良いのです。これが確かな修行です。私はこの修行の中で一進一退を繰り返しています。この先に利他の心がありますが、まだ遠い道のりのように感じています。若い彼が悩むのも無理もないことです。

posted by むしょうさん at 11:20| Comment(0) | 人生相談

2018年06月05日

問い:苦しみはどこから来ますか?

答え:私たちの所有欲からです。

苦しみは、すべてのものに対して「自分のもの」と思い込んで、それに執着することから生じます。すべてのものはただ変化し消滅するだけのものなのに、私たちは不変不滅を望みます。そしてその望みは決して叶えられません。そこに苦しみが生じます。一番身近な例は自分の体です。誰もが自分の体は自分のものだと思い込んでいます。ところが、所有物にもかかわらず、私たちは皺や白髪が増える老化を一秒も止めることができません。病気になることも死ぬこともそうです。いつまでも若くいたい、死にたくないと望んでも、結局は失望することになります。何一つ思いどおりにはならないのです。これで本当に自分のものと言えるでしょうか。もともと所有できないものを所有しようと無駄な努力をしているように見えます。

所有欲の正体は「自分の思いどおりにしたい」という心です。しかし実際には何一つ思いどおりにはなりません。自分の体一つ思いどおりにできないのに、どうして他のものを思いどおりにできるでしょうか。苦しみを減らすには、この世のものはただ変化し消滅するもの、何事も自分の思いどおりにはならず、所有することはできないと思い直すことです。愛する人、愛する人の心についても同じです。

「自分のものではない」と思い直すことは、心が冷めたり、諦めたり、人のことなどどうでもいいと投げやりになることとは違います。むしろ逆です。それは、特定の人に執着するのをやめて、全ての人に対して平等に慈しみの目を向けるということです。私は私のものではなく、彼も彼のものではありません。全ての人が無常の世界に住みながら常住を求めて苦しんでいます。皆が同じ境遇にあるのです。私たちは同じ悲しみを背負った同胞です。互いに憐れみ、優しくしあうのが自然な姿と言えるでしょう。


posted by むしょうさん at 13:34| Comment(0) | 人生相談

2018年05月04日

問い:私は何のために生まれてきたのですか?

答え:別の命を支えるためです。

ですから、別の命を支える生き方をしましょう。それが自然な生き方です。その生き方で、あなたは必要十分な幸せを得られます。これ以外の生き方、自分の命のためだけに生きる生き方は、不自然な生き方です。この生き方では、一時の喜びは得られても、幸せは得られません。自分が何のために生まれてきたのかを知れば、生き方は自然に定まります。

これは、仏教の根本思想「縁起」に基づくお話しです。縁起では、全ての命はつながり合い、支え合っているとします。ある命は、別の命の支えによって成立しています。一つの命が、他とつながりを持たずに単独で存在することはありません。

posted by むしょうさん at 08:31| Comment(0) | 人生相談

2018年04月10日

【心の僧談】水子供養

正雲寺に寄せられるお悩みの一つに人工中絶の問題があります。多くのお父さんお母さんが罪の意識に苦しんでいます。この罪とどのように向き合い、そして乗り越えていくのか、水子供養を例に考えたいと思います。



タグ:水子供養
posted by むしょうさん at 07:18| Comment(0) | 人生相談

2018年03月12日

強情な人との向き合い方

正雲寺は人里離れた山寺で、周囲には山と川があるだけです。毎日ここで自然の移り変わりを見ていると、時々「なるほど、そうだったのか!」とハッとすることがあります。それは、当たり前のことだったり、すでに言い古されたことだったりします。それなのに、今になって急に胸に迫り、強く心に刻まれることがあるのです。それは「知る」ではなく「気づく」ということなのでしょう。

この冬もたくさんの雪が積もりました。12月から2月までの三ヶ月間は、毎日が除雪作業です。雪の下の方はすで氷の塊となっていて、力任せにツルハシを振ってもはね返されるばかり。その度に氷の破片が顔に飛んで来て痛い思いをします。なかなか作業は進まず、私はますますむきになってしまいます。それはまるで氷の塊と格闘しているようです。

3月になると春が訪れます。太陽は日射しを強め、それに応えるように地面は生気を取り戻します。春の陽気が、重い氷を見る見るうちに溶かして行きます。私が何日もかけて格闘した氷を、太陽はわずか数時間で溶かしてしまいました。しかもとても平和的にです。太陽が「さあ、そろそろ春の日射しを届けよう」と言えば、氷は「ではそろそろ私はおいとまします」と答えるのです。両者は穏やかに向き合って格闘などしません。

人は「人間も自然の一部」などと言いながら、自然の営みに真実を見ようとはせず、自分勝手な解釈を探そうとします。しかしそれはいつでも遠回りに終わったり、無駄に終わったりします。人間が自然の一部なら、私たちも自然の営みと同じであるべきだと思うのです。そこに見える真実のとおりに生きられれば、遠回りも無駄もありません。自然の営み中にある真実は、木で例えるなら、幹の部分です。一方、自分勝手な解釈は枝葉に過ぎません。もしかすると枝葉でさえないかもしれません。

強情な人と向き合う方法は、太陽が氷にするように、春の日射しを届けることです。力任せにツルハシを振るうのは、表面のわずかな部分を削るばかりで、とても長い時間がかかります。途中で抵抗にあって、痛い思いをするかもしれません。決して得策とは言えませんね。強情な人は、いわば氷の塊です。その氷を溶かすのは、あなたが放つ春の日射しです。時々、ツルハシで割れ目を入れるのも良いかもしれません。溶けるのが速くなります。しかしツルハシを入れるポイント、即ち「氷の目」を心得ていないと割れ目は入れられません。もしあなたに心得がないなら、手当たり次第にツルハシを振るうことはせず、ただ暖かな春の日射しを注ぎ続けてください。そしてその日差しが強ければ強いほど、氷が溶けるのも速いことを知っておいてください。

自然の営みは、すぐに答えを求めようする私たちには、まどろこしく見えます。しかし本当は、最も合理的で、一番の近道で、そして何よりも平和的な姿なのです。

posted by むしょうさん at 12:08| Comment(0) | 人生相談

2018年02月16日

問い:マイナスの感情を消し去るには?

答え:心の中にいくつも引き出しを持ちましょう。

人には誰にも言えない感情があります。自分を幸せにする感情なら良いですが、悲しみ、怒り、恨みといったマイナスの感情は厄介です。放っておくと心も体もむしばまれてしまいます。人はこのマイナスの感情によって、人生を左右するような大事な決断をしてしまうことがあります。勢いで会社に辞表をて叩きつけたり、勢いで言ってはならない言葉を吐いたり、勢いで自死を選ぶことがあります。後悔してもすでに手遅れです。マイナスの感情は、人の正気を失わせ、人生を狂わせるほど激しく強いのです。

こうしたマイナスの感情を心の中から消し去りたいと思うのは当然です。「楽になりたい」という願いと、「このままでは自分は過ちを犯しかねない」という危機感がそうさせるのでしょう。多くの人がこの思いを抱いています。ところが現実には、「消したくても消せない」ままずっと苦しみ続けます。

マインドフルネスは古くからマイナスの感情を消し去る方法として実践されてきました。正しい精神集中によって、起きている現象の中にある真実を観察し思考の転換を図る努力です。仏教でも「正念」と呼んで大切にしています。これができる方はそれでいいのですが、多くの方は漫然としてただ悩み続けます。私はそうした方々に「心の中にいくつも引き出しを持ちましょう」とお答えしています。

消し去れないのなら、ひとまず持っておくしかありません。心の中の「苦しみ」と書かれた引き出しにしまっておいてください。それでも苦しいのは、あなたが引き出しを一個しか持っていないからです。一個しか持っていないから、頻繁に引き出しを開けて中を覗いてしまうのです。もしこれが、いくつも引き出しを持っていたらどうでしょう。一つの引き出しには「私の夢のため」と書かれています。また別の引き出しには「愛する人のため」と書かれています。そして一番大きな引き出しには「乗り越えたこと」と書きましょう。

マイナスの感情を引き出しにしまっておくということは、黙って耐えるということに他なりません。多くの人は耐えることが嫌いです。もっとほかの方法はないかといつも探し回っています。しかしどこにもありません。ブッダは「忍耐は、苦行の中の苦行。耐える者は常に勝利者である」と語っています。

あなたは、耐えている間は一触即発の状態にあります。まるで爆弾です。誰かが言った他愛のない言葉が導火線に火をつけることもあります。とても危険な状態です。ですから、人里離れた場所で一人静かにしていてください。それができないなら、黙っていましょう。もし口を開けば、悪言が飛び出すからです。これは正しく苦行です。その時に別の引き出しを持っていれば、この苦行を乗り越えることができます。今の苦行は、私の夢のため、そして愛する人のためなのです。

この苦行を繰り返すうちに、「乗り越えたこと」と書かれた引き出しは、「乗り越えたこと」でいっぱいになっていきます。いつしかマイナスの感情をコントロールする術が身についています。思い通りにコントロールできるということは、決して振り回されないということ、支配されないということです。そしてこれは、心の中からマイナスの感情を消し去ったも同じなのです。

時々「乗り越えたこと」と書かれた引き出しの中を覗いてみましょう。フォルダーの厚みは今どれくらいですか。1センチですか。それとも2センチですか。フォルダーの厚みはそのままあなたの苦歴です。学歴や職歴などとは比較にならないほど、人生に深みと輝き与えてくれることでしょう。

posted by むしょうさん at 11:58| Comment(0) | 人生相談

2018年01月02日

問い:善悪の基準がわかりません。

答え:仏教の答えは明快です。

他人が喜ぶことは善、自分だけが喜ぶことは悪です。正不正についても同じです。他人が喜ぶこととは、人(生きとし生けるもの)を傷つけることはしない、そのために自分の身を慎むということです。仏教では10項目を挙げています。年始にあたり、皆さまの今年一年の抱負にしていただければと思います。全部は無理でも、「これだけは守り通すぞ!」というものを見つけてくださいね。

@ 興味本位で命を奪わない。
A 人のものを盗まない。
B 道徳に反した性欲を持たない。
C 嘘を言わない。
D 酒に溺れない。
E 人の過ちを責めない。
F 自分を誇り、人を見下げない。
G もの惜しみしない。
H 怒らない。
I 人が信じるものを批判しない。

posted by むしょうさん at 07:03| Comment(0) | 人生相談

2017年12月25日

クリスマスおめでとう

IMG_0840.jpg
正雲寺にもサンタがやって来たー!

今日はイエス・キリストの誕生日です。私は仏教僧ですが、愛と真理を語るイエス様を、お釈迦さま同様に慕っています。そのご降誕を素直に喜びたいと思います。イエス様は、豪華な宮殿ではなく質素な馬小屋でお生まれになりました。このことは私に「静けさの中で、慎ましくあれ」と教えます。ご縁のあった方々の幸せを祈りながら静かに聖夜を過ごしたいと思います。

しかし世の中には、今この瞬間も苦しく悲しい思いをされている方もいらっしゃることでしょう。クリスマスを祝うどころではないかもしれません。そんな誰にも相談できずに一人でじっと耐えている方にこの話を贈ります。


ある男が夢を見ました。夢の中で男は主イエスと二人で並んで歩いていました。男が後ろを振り返ると、これまでの道のりには、主イエスと自分の二組の足跡が記されていました。ところが、所々、足跡が一組しかない場所があります。男は思いました。

「そういえば、その場所は私が苦しんでいた時だ。
私が苦しんでいた時に限って一組しかない」。
そこで男は傍らのイエスに尋ねます。
「どうして私があなたを一番必要とした時に、
私からお離れになったのですか」。
イエスがお答えになりました。
「いとしい我が子よ。
私は片時もお前の側を離れたことはない。
お前が見た一組の足跡は、私のもの。
私はその時、お前を背負っていたのだ」


苦しい時、背負われていることを実感できないとしたら、それは悲しいことです。なぜなら、その人は苦しみに中にいてもなお自分のことしか関心がないからです。この話の男のように、一組の足跡を見て、自分の足跡だと思い込むところに苦しみは隠れています。クリスマスは、心を愛で満たす日です。独りぼっちを嘆くのではなく、これまでどれだけ多くの人に支えてもらって来たか、また今は誰に支えてもらっているかを心静かに考える日にしたいですね。

メリークリスマス!

posted by むしょうさん at 06:52| Comment(0) | 人生相談

2017年12月16日

八正道 その三【正語】

八正道(はっしょうどう)は、お釈迦様が説いた「苦しみを止滅させるための八つの方法」です。「正しい道」とは、本来「さとりの智慧を得る方法」という意味ですが、今は「他人を幸せへと導く方法」と理解する方が分かりやすいかもしれません。利他の生き方こそ、苦しみから解放されて自らを利する生き方だからです。正しくあるためには「自分の思い通りにしたい」という自己中心的な考えや態度、つまりエゴを減らす努力が大切だと最初の【正見】で教えています。


【正語(しょうご)】〜正しく話す〜
“言葉の暴力”と言うように、私たちは話す言葉によって多くの罪を犯します。怒りの言葉、怨みの言葉、妬みの言葉、批判の言葉、自画自賛の言葉、自己弁護の言葉。共通しているのは「自己中心性」です。自分の好み、都合、世界観で話しています。そこには相手を尊重、配慮する心はありません。結果として、人に不快な思いをさせますから、人間関係は壊れていきます。そこに苦しみが生じるのです。正語は、これらとは逆です。相手が喜ぶような、幸せな気持ちになるような言葉です。それは「ありがとう」の一言かもしれませんし、たんに「おはよう」の挨拶かもしれません。「私はあなたのことを決して忘れていません。いつも気にかけています」という気持ちが込められた言葉です。優しい言葉ばかりではありません。相手を思うからこその厳しい言葉もあります。人は、自分に心を寄せてくれる人にのみ関心を示すものです。正語が善良な人間関係を築くことでしょう。

posted by むしょうさん at 08:18| Comment(0) | 人生相談