2016年10月15日

問い:ペットを火葬した後、すぐに埋葬してもいいですか?

答え:四十九日間はご供養をしてあげてください。

故人の場合と同じで、四十九日間はお骨を前に追善のご供養をします。初七日から七七日(四十九日)まで一週間おきのご供養です。四十九日を過ぎて埋葬する際は、お骨を木綿のハンカチや手ぬぐいなどで包んでから埋めます。覆い袋や骨壺は廃棄しても大丈夫です。埋葬した後は、花を植えるなどして、そこに大切なペットが眠っていることが分かるようにしてください。ペット用の小さな墓石もあります。以降は折に触れて手を合せ、話しかけてあげてください。他人の所有地に埋葬すると不法投棄と見なされますのでご注意ください。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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2016年10月13日

問い:不幸が続くのは水子を供養していないからですか?

答え:「水子」ではなく「我が子」として見てください。

「水子のたたり」などと言って不安をあおる人がいます。本当にたたりというものがあるのでしょうか。不幸が続くのは水子のせいでしょうか。せっかくのお尋ねですが、私には分かりません。

ある人がお釈迦様に「人は死んでも魂は生き続けるか」と尋ねたところ、お釈迦様は「一生考え続けても答えが出ないようなことを思い煩うな。人生にはもっと考えなければならないことがある」とおっしゃいました。私はこのお言葉に従います。同時に、私は水子について一つの信念を持っております。私自身が正しいと考えることです。それは、水子は人を恨むような悪の心を持たない純粋な精霊だということです。このように言うと、水子は善の心だけを持った精霊だと思われるかもしれませんが、それも違います。人の本性は善でも悪でもありません。その中間です。善い境遇にあれば善の心に傾き、悪い境遇にあれば悪の心に傾くのが人の性です。どちらの境遇にもない水子はその中間と言えます。これゆえに「純粋」と申し上げたのです。

善でも悪でもない水子ではありますが、私は第三の心があるように思っています。それは親子の心です。親は子を愛し、子は親を慕います。親子の心は善悪の彼岸にあって、両者を固く結びつけています。子はどこまでも親の愛情を待っています。恨みごと一つ言わずに、ただ待ち続けているのです。子の思いに、親が愛情をもって応えること。この関係以外にはありません。そこにいるのは水子ではなく我が子です。我が子を「怨霊」のように言うのはやめてください。ただ我が子の幸せだけを願ってご供養をしてあげてください。我が子の幸せこそ、親の幸せなのですから。

ご質問には、自分の幸せを第一に考えるあなたのエゴが見え隠れしています。そもそもそのような考え方では真の幸せを得ることはできません。あなたが不幸続きだと思うのも、そこに本当の原因があるようです。真の幸せは、自分ではなく人を幸せにするところから始まります。自分の幸不幸を基準に考えるのではなく、我が子の幸不幸を基準に考えてください。

水子ちゃんのことでお悩みの方は、いつでもご連絡ください。なんでもお話しください。ご相談は無料です。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
メール: mushou@shounji.or.jp
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ご連絡の際「ブログを見た」と
書き添えていただけると幸いです。

会津正雲寺 0242-28-1110(24時間対応します)
大分正雲寺 097-583-4433(24時間対応します)
水子供養は、福島県と大分県にある二つの正雲寺で承ります。
正雲寺の水子供養 http://shounji.or.jp/mizuko.html

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2016年10月07日

問い:最愛のペットを亡くしました。悲しくてたまりません。

答え:今は泣けるだけ泣いてください。

大切なものを永遠に失ったと思う時、人は深い悲しみに陥ります。この悲しみがいずれ癒えるとは信じられないことでしょう。「時がすべてを解決してくれる」という真理も、今のあなたには気休め程度にしか聞こえないかもしれません。

子供の頃、私の家には吹雪(ふぶき)という名のミニチュアシュナウザーがいました。私と吹雪とは、家族もうらやむほどの仲良しで、いつでもどこでも一緒でした。吹雪は、持っている愛のすべてを私に注いでくれました。私との時間を一秒も無駄にしたくないという様子でした。そんな吹雪を家族は「この子はどこか生き急いでいるね」と言うのでした。その言葉のとおり、吹雪はわずか4年の生涯を駆け抜けていきました。悪い病気にかかってしまったのです。小さな体をふるわせて痛みに耐える吹雪、私がそばによると力を振り絞って、血を吐きながらも起き上がろうとします。そんな吹雪を見るのは子供の私には辛いものでした。医師の判断で筋弛緩剤を投与された時、最後の最後に頭を上げて私の顔をじっと見ながら、消え入るように安楽死していった吹雪、その吹雪の顔を今も忘れません。私は毎日泣き続けました。生気なくペットショップに出向いては、同じミニチュアシュナウザーに吹雪の面影を重ねたりしました。その時、この悲しみが癒えるなどとは到底思えませんでした。当時「ペットロス」という言葉はまだありませんでしたが、私はその典型だったと思います。

もう30年も前の話です。今でも時折悲しみが襲ってきます。しかし、以前は悲しみ一色だったものが、今では穏やかな幸福感が心を占めるようになりました。時間の経過とともに悲しみが癒えたとは言い切れません。悲しみを忘れたことはないからです。私の中で悲しみと幸福が仲良く同居しているようです。不思議なことですが、どちらも吹雪の一部なのです。どちらかを好んで、どちらかを嫌うことなどできません。時間の経過とともに、吹雪を丸ごと愛する心が強くなり、そう思わせているのかもしれません。悲しみが癒えたというよりも、愛が一層強くなったという方が正しいように思います。「必ず最後に愛は克つ」という歌がありましたね。本当にその通りだと思います。

深い悲しみに対して、すぐに効く特効薬などありません。私が30年かかって得たものは、吹雪のすべてを受け入れて愛することでした。やせ細った体も、吹雪が流した血も、わずか4年の命も、どれも私には愛すべき吹雪です。そう思える時、初めて悲しみは悲しみでなくなります。そう考えますと、本当は悲しみなどは初めから無かったのかもしれません。現象をありのまま見ることをせず、悲しみとして見る私の心があるだけなのです。今なら分かる気がします。生と死の両方が吹雪そのものだということを。両方を愛することが、吹雪のありのままを愛することだということを。

皆さまが、私のように愚かにも30年も時間を費やすことがないように、一日も早くこの理(ことわり)に気付いてくださるように願うばかりです。合掌

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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2016年10月05日

問い:ペットにもお葬式が必要ですか?

答え:それはあなたのお心しだいです。

お葬式は、亡くなった命が天国への道を歩むために最初にくぐる「門」だと思ってください。どこに向かえばいいのか迷っていた精霊(亡くなった命)が、お葬式によって、この正しい門を見つけることができるのです。そう考えれば、すべての命にとって、お葬式は必要ということになります。しかし、何より大切なのは、あなたの「ご供養をしてあげたい」という清らかな心です。

仏教では、動物も人間も同じ命と考えます。命は過去世・現世・来世の三世を永遠に生き、「生まれて死に、また生まれて死ぬ」を繰り返します。これを仏教の言葉で「輪廻転生:りんねてんしょう」と呼んでいます。この繰り返しの中で、たまたま動物として生まれ、たまたま人間として生まれただけと考えるのです。私たち人間も来世には動物に生まれ変わるかもしれませんし、ペットは人間に生まれ変わるかもしれません。荒唐無稽に聞えるかもしれませんね。大切なことは、私たちは皆同じ条件のもとで生きているということです。ですから、命の尊さに違いはなく、そこには差別はないのです。

人が亡くなった時は、誰でも当たり前のようにお葬式をします。動物だからという理由で命を軽んじていいわけがありません。他の命を軽んじるということは、自分の命を軽んじることでもあるのです。命を尊ぶ心は、人に対しても動物に対しても同じでありたいと存じます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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2016年10月03日

問い:何をやってもうまく行きません。

答え:そんな自分を丸ごと愛しましょう。

失敗が続いたり、挫折をしてしまうと、自分のことが嫌いになることがあります。「こんな私は生きる価値がない」と思い詰めたりもします。おそらく多くの人が同じ経験をお持ちでしょう。私もそうです。特に器用でもなければ、利口でもない私は、努力することでしか人並みにはなれないと思っています。私なりに努力を重ねてはいますが、それでも心の片隅には、“努力してもカバーできない、どうしよもなく愚かな自分”というものを持っています。厄介なことから逃げたり、やるべきことを怠けたりする“分かってはいるけど、そうできない自分”です。そんなダメな自分を捨て去りたいと思いながら、けっこう楽しく一緒に暮らしているのです。

私は、そんなダメな自分も含めて丸ごと愛せる心を持ちたいと思っています。心理学者のカール・ロジャーズは、「人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている。有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である」と言っています。人間は、どのような状況下でも成熟に向かって前進する力を本能的に持っているということ、うまく行っても行かなくても、成功しても失敗しても、どんな状況に置かれても、私たちは必ずそれらを自分の成熟に活かすことができるということです。その自己実現力を信じること、それが自分を愛するということです。逃げることも怠けることもあるけれど、決してそれだけでは終わらないものを持っているからこそ、自分を愛せるのです。

自分を愛することは、利己主義とは違います。利己主義の人は、いつも自分が中心でなければ気が済みません。中心にいる自分なら愛せますが、脇にそれた自分は愛せないのです。自分は縁の下の力持ちで、他人が中心になっているのをニコニコ笑って見ていられない人です。本当の意味で自分を愛せる人は、縁の下の力持ちで汗水流して働いて、うまく行かなくても報われなくても、そんな自分を少しもみじめに思わない人です。なぜかと言えば、どんなに苦しい仕事をしていようと、どんなに辛い立場にあろうと、それらは自分の本質とは無関係であり、自分が持つ自己実現力、成熟に向かって前進する力は微動だにしないことを知っているからです。

自己実現する力を信じる人は、自分を愛することできます。そして自分を愛せる人は、他人を愛することもできます。自分の愚かさを許せるあなただからこそ、他人の愚かさを許すことができるのです。何をやってもうまく行かない自分を愛してください。成熟に向かって前進する力を信じてください。逃げても、怠けても良いのです。しばらくは静かにしていましょう。気持ちが十分落ち着いたら、少しずつでも良いですから歩き出してください。それが自分を信じること、自分を愛することです。結果は必ず付いて来ます。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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2016年09月29日

心のあり方

人は自分の未来について、あれこれと仏さまにお願いをします。しかし仏さまがあなたにお与えになるものは、あなたが「欲しいもの」ではなく、あなたに「必要なもの」です。仏さまはどんな時でもあなたの幸せを願っておられます。ですから、たとえあなたが望まなくても、あなたを幸せにするために、本当に必要なものをご自分の判断でお与えになるのです。それは必ずしも私たちにとって心地よいものとは限りません。

あなたが「お金持ちになりたい」と願っても、仏さまはあなたに貧しさをお与えになることがあります。それがあなたに必要だからです。あなたは貧しさの中から清らかな愛を得ることができます。「成功したい」と願っても、失敗をお与えになるかもしれません。しかし、失敗の中から謙虚を得ることができます。「仲間がほしい」と願っても、孤独をお与えになるかもしれません。それでも、孤独の中から己を信じる心を得ることができます。清らかな愛・謙虚・己を信じる心は、すべて幸せの種です。あなたを本当の幸福に導きます。

たとえあなたの目には苦しい試練に映ったとしても、その中には、仏さまの慈悲の心が必ず込められています。あなたの人生の幸不幸は、目の前の試練に幸せの種を見出せるかどうかにかかっています。すべては、あなたの心のあり方しだいです。

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2016年09月27日

身のほどを知る

人の欠点が気になることがあります。それによって腹を立てたり、思い上がったりします。昔の言葉に「他人の目の中にあるおが屑(くず)はよく見えるのに、自分の目の中にある丸太には気づかない」とあります。これは、わたしやあなたに限ったことではなく、いわば人類共通の悪い性質と言えます。行き着くところは、争いと差別の世界です。一刻も早く、そこから抜け出てください。

ブッダは「他人のすること、しないことを見てはいけません。自分のすること、しないことを見なさい」と説かれました。人を裁けば、あなたも必ず裁かれます。そもそも私たちは、すでに家族、友人、隣人、部下と上司、神さまと仏さまから大目に見てもらっている身なのです。自分はたくさんの事を大目に見てもらっているのに、他人のささいな事を大目に見ないとはどうしたことでしょう。人の欠点が気になる時は、身のほどを知ることも大切です。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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2016年09月19日

問い:泣きたいときは?

答え:思いきり泣いてください。

苦しい時には、思いきり苦しんでください。悲しい時には、思いきり悲しんでください。泣きたい時には、思いきり泣いてください。仏さまに向かって、心にもないきれいごとを並べ立てるより、あなたの本心を打ち明けてください。存分に泣きごとや恨みごとを言ったらいいのです。仏さまは、あなたの弱い心、あなたの幼い心、あなたの悪い心は全部お見通しです。お見通しの上で、全部引き受けてくださっています。仏さまは、私たちの不完全な心を許してくださいます。私たちが、不完全ゆえに自分で招いてしまう試練の後始末をいつもしてくださいます。その試練を乗り越えるだけの力を私たちにお授けになることで。ご冥助(みょうじょ:目に見えない仏さまの助け)を信じることです。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)

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2016年09月15日

問い:何十年も前の水子ですが、どうすればいいでしょうか。

答え:今日を好機として、勇気を出してお子様と向き合ってください。

ある女性は「50年前に中絶した子供がいます。この事は誰にも言わずに、墓まで持っていくつもりでした。今まで、この話題に触れるのを避けてきました。子供にどう詫びていいのか分かりません。こんな私は地獄におちても仕方がないと思っています」と仏さまの前で泣いて告白されました。私は、女性が苦しみ続けた長い年月を思い、胸が詰まってしまいました。長い沈黙をはさみながら一時間ほど経ったころ、ようやく落ち着かれた様子でしたので、次のようにお話しをさせていただきました。「あなたは50年という時間をかけて、今ついに仏縁を結んだのです。もしかすると、仏さまとは無縁のまま生涯を終えたかもしれません。50年はあなたに必要な時間だったのです。この尊いご縁をもたらしてくれた方こそ、あなたのお子様です。お子様は寂しさに耐えながら、あなたの機が熟すのを50年も待ってくださったのです。これほどの親孝行があるでしょうか。あなたは自分で地獄におちるとおっしゃっていますが、お子様は無垢の愛であなたが地獄におちないように一生懸命に導こうとしているとは思いませんか。どうか、そのお子様の愛に応えてあげてください」と。女性はうつむいたままでしたが、確かにうなずいてくれました。

お子様の愛に応えるには、心からの懺悔(さんげ)とご供養が必要です。この二つが合わさったものがお葬式とお考えください。お葬式というと、形式張ったものを想像する方もおられるでしょうが、大切なのはそこではありません。お葬式によって、お子様とお母さまの両者は、大きな心の平安を得ることができます。今まで正常とは言えなかった二人の関係が、本来の「慈母と愛児」の関係に戻るのです。お子様の存在は、お母さまにとっての「悲しみの種」から「幸せの種」へと変わります。避け続けてきた存在が、「この子なくして私の幸せはない」とまで思わせる存在となるのです。生きていれば、当たり前の親子関係です。母は子を愛し、子は母を慕います。優しくて寛容な関係を再び築くこと、これがお葬式の大切な意味なのです。

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2016年09月09日

問い:人を幸せにする仕事がしたいです。

答え:その前に、考えてほしいことがあります。

正雲寺には毎日たくさんの方がお見えになります。お一人お一人とのご縁を大切に思い、私ども僧侶は必ず笑顔でお迎えするようにしています。皆さまも笑顔を返してくださるので、気持ちの良い、幸せな出会いが実現します。笑顔の効果についてはよく分かっているつもりの私ですが、夕方、居宅に戻ると、疲れもあってか、仏頂面になることがあります。昼間の笑顔はどこにいったのやら。おそらくは家族への甘えがあるのかもしれませんね。他人に笑顔を見せるより、家族に笑顔を見せることの方がずっと難しいようです。「愛は近きから」と言います。実際、家族の幸せをないがしろにして、家の外に幸せを求めようとする人々が多いようです。家族の幸せのためには、乗り越えなければならない面倒があるからでしょう。

「面倒」の一番は、「許す」ことです。いつも一緒にいる家族の欠点はよく見えます。これに対して、深い付き合いのない他人の欠点は見えず、表面上の美点だけが目に映ります。家族の欠点を見るより、他人の美点を見ている方が気持ちいいのです。家族の幸せを考えるなら、欠点を許す気持ちがなければなりません。表面上の欠点は許し、表面に現れない内にある美点に気付いてあげることが大切です。おならやげっぷを繰り返すデリカシーのないお父さんでも、家族のためなら、辛いことのすべてをのみ込んで毎日会社に出かけます。怒ってばかりでヒステリー気味のお母さんでも、家族のためなら、一日も休まずご飯を作り続けます。本当に大切なものは表面には出てきません。内にある美点は、心の目で見なければ見えないのです。お父さんとお母さんの、自分はどんなに辛くても、家族への愛は変わらないというのがそれです。

今年89歳になるカトリックのシスター渡部は「面倒だから、しよう」と言葉を標語に掲げておられます。普通は「面倒だから、しない」であって矛盾するようですが、これで正しいのです。私たちは利便性や速さを追い求めるあまり「時間のかかる面倒なことはしない」という考え方を当然と思っています。しかし、そのような考え方が通用しないものがあります。本当に大切なものほど、時間がかかり面倒なものです。愛・友情・寛容・謙虚・幸福。どれも私たちの人生に欠かせないものですが、時間をかけて努力しなければ手に入らないものばかりです。「面倒だ」と言っていては、一度きりしかない人生を放棄しているようなものなのです。

人の欠点を許す心を持ってください。そして人の内に秘めた美点に気付いてあげてください。決して口には出さないけれど、どんな人にも心の中で守り通している美点があるのです。まずは最も身近な人の欠点を許すことからです。他人を幸せにする前に、あなたの家族を幸せにすることを真剣に考えてください。その努力を惜しまない人なら、他人を幸せにすることもできます。人を幸せにするノウハウは同じなのです。逆の言い方をすれば、家族を悲しませるような人は、他人を幸せにすることはできないということです。

最後に、愛の定義をご紹介します。それは「自分がして欲しいと思うことを人にすること」です。これは、ブッダとキリストのお二人が、生きた時代も場所も超えておっしゃったことです。喜びが欲しいなら、人に喜びを与えることです。自分が傷つきたくないなら、人を傷つけないことです。あなたが幸せになりたいなら、人を幸せにすることです。嘘だとお思いなら、どなたか年長の方に聞いてみてください。人生の機微をお持ちの方なら、皆さん同じはずです。あなたが自分の欠点を見ないで欲しいと思うなら、人の欠点を見ないことです。自分の美点に気付いて欲しいと思うなら、人の美点に気付いてあげることです。これらの努力は、すべて「愛」で貫かれています。あなたが努力し続ける限り、あなたは愛に満ちた人生を送っているということなのです。なんと素敵なことではありませんか!

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
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