2017年06月12日

正雲寺のカエルたち

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正雲寺のアオガエルたちは、今年も元気に活動再開です。「きれいな姿だな〜」って思います。お寺は殺生禁止の聖域ですから、彼らものびのびと生活しているんでしょうね。これから夏に向けて、多くの野生動物たちが集まってくることでしょう。楽しみです。写真をクリックして拡大して見てくださいね。

posted by むしょうさん at 08:27| Comment(0) | 日記

2017年05月18日

日曜坐禅のご案内

2017年の日曜坐禅は、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を行います。聞き慣れない方もいらっしゃることでしょう。これはお釈迦様の時代から実践されている仏教伝統の瞑想法です。難しいことは何もありませんのでご安心ください。前半は座る瞑想(サマタ瞑想)です。座りながらある文章を読み続けることで気持ちを落ち着かせます。後半は立つ瞑想(ヴィパッサナー瞑想)です。立つこと自体を一つ一つ自分で実況中継します。自分の動作にだけ集中して、他の雑念を取り払います。実際に、それが皆さまの心にどのように作用するかは、体験してのお楽しみです!

次回開催は、6月11日です。6月から12月までの毎月第2日曜日、午前9時30分より正雲寺会津本山の坐禅堂にて開催いたします。参加費は500円。小学生以下のお子様は無料です。

ご予約は、
0242-28-1110
info@shounji.or.jp
までお願いいたします。

posted by むしょうさん at 12:21| Comment(0) | お知らせ

2017年05月13日

『修証義』 第20節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200−1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめ、仏さまの教えを易しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
菩提心(ぼだいしん)を起こした人は、たとえ生まれ変わりを繰り返そうとも、その過程はすべて、最終的な涅槃(ねはん)のための準備になります。しかし菩提心を起こさなければ、ただ虚しく生まれ変わりを繰り返すだけで、涅槃の準備にはなりません。ですから、今までの人生を虚しく過ごしてきたと思うなら、命が尽きる前に急いで菩提心を起こしなさい。菩提心とは、たとえ涅槃の境地に入ったとしても、その境地を一人で楽しまず、またそこに安住せず、なおも他人を救おうと努力することです。お釈迦様は俗世間から解脱して、一人涅槃の境地を楽しむことができたのに、そうはせずに虚しく苦しい俗世間にとどまって人を助け続けました。これが菩提心というものです。

【ミニ法話】
菩提心とは、簡単に言えば、自分の利益よりも人の利益を優先するということです。自分の楽しみや喜びは、ひとまず後回しにして、人の楽しみや喜びのために努力することを言います。
仏教は、生命の「生まれ変わり」を説きます。そして、「生まれ変わり」は決して嬉しいことではなく辛いことだと教えます。どんな世界に、どんな姿形で生まれ変わろうとも、老病死の苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、欲しいのに手に入らない苦しみ等が必ず付きまとうからです。ですから、生まれ変わりというサイクルから抜け出て、苦しみのない平穏な世界(これを「涅槃」といいます)に行くことをすすめるのです。その涅槃に行くための唯一の条件は、「菩提心を持つ」ことだと教えているのが本節です。

タグ:お経を読む
posted by むしょうさん at 12:43| Comment(0) | 現代語訳『修証義』

2017年05月10日

【死と向き合う】私の人生は何だったのでしょうか


『死と向き合う』と題して、死に直面した人々の心の声を連載します。これらの声に私たちはどう向き合って、何を答えればいいのでしょうか。死は誰にも平等に訪れます。自分自身の事として、または見送る側の家族として何ができるのかを一緒に考えて参りましょう。

この声の背景には、「自分の人生の意義が分からず虚しく感じる。意義ある人生を送れず後悔している」という嘆きがあります。死を目の前にした時、人は誰でも否応なく自分の人生を振り返ります。その時、多くの人にとって一番の気がかりは「人生の意義」です。

意義とは何でしょうか。「生きた証(あかし)」と言う人もいれば「存在価値」と表現する人もいます。いずれにせよ、一般には「生きている間に、自分は何か価値のあることをしたか」ということではないでしょうか。価値は人によって違います。ビジネスに成功してお金と社会的地位を手に入れることかもしれません。または家族や孫に恵まれることかもしれません。反対に、目に見える形では何も残せず、独りで寂しい思いをしている人もいます。

仏教では、人によって感じたり感じなかったりする価値は説きません。それらは私たちが自分の都合で勝手に作り上げたのであり、大小、高低、優劣、多少といった人との比較が前提になっています。仏教は、人と比較しない絶対的な価値だけを説きます。つまりそれは、「人間としてこの世に生まれる」ということです。

こう言うと「生まれることなんて努力とは関係ない、自分で成し遂げたとは言えない」という反論が聞えてきそうです。現世に限って言えばその通りです。しかし仏教はもっと大きな時間軸で物事を見ます。現世だけでなく、過去世にまでさかのぼって見るのです。あなたは、過去世で何かとても善いことをしたから、そのご褒美として、今こうして人間に生まれることができました。他の生き物、例えば鳥とか牛とかミミズとかに生まれていても不思議ではありませんでした。こんな例え話があります。東京タワーの上からコップ一杯の水を捨てた時、水は細かく別れて霧となり空気中に拡散します。拡散した水が再び集まって、地上に置かれたコップを元と同じように満たすことはほとんどあり得ません。これと同じで、ある人が死んで再び人間に生まれてくることは天文学的に低い確立であって、ほとんどあり得ないのです。

なぜ人間に生まれることがご褒美なのかと言えば、それは、地球上の、星の数ほどある生命の中で、人間だけが真理を学ぶことができるからです。つまり、こういうことが言えます。人生の意義とは、人間として生まれること、そして真理を学ぶこと、この二つなのです。あなたはすでに「人間として生まれる」は達成しています。残る一つ「真理を学ぶ」は、あなたの呼吸が止まる最期の瞬間までトライできることです。

真理とは「すべての命はつながっている。命は孤立することがない」です。そして、真理を学ぶとは、これが自分にとってどういう意味なのかを考えることです。命がつながるとは、互いに影響し合うこと。その中には、人は人を支え、また同時に支えられているという事実が含まれています。真理から見れば、あなたがこれまでどのように生きてきたかは関係ありません。あなたはただ生きているというだけで、すでに誰かを支えているのです。実感がありませんか?それはあなたが、目で見て肌で感じるものしか相手にしない生き方をしてきたからです。そのような窮屈なものの見方から、もっと大らかなものの見方に変えてはどうでしょうか。

人生の意義は、すべての人類に対して平等に、すでに与えられています。多くの人が、すでに達成したものと達成していないものの区別さえできないでいます。人生の意義について、遠くに答えを求めても、そこにはありません。あなたの足元にすでにあるのです。あなたは誰を支えましたか。そして誰に支えられましたか。時間をかけてゆっくりと考えてください。その答えが見つかった時、あなたの人生の意義はすべて達成されます。

ご相談は、
メール: mushou@shounji.or.jp
LINE ID: mushosan
ご連絡の際「ブログ記事〇〇を見た」と
書き添えていただけると幸いです。
posted by むしょうさん at 08:51| Comment(0) | 人生相談

2017年05月02日

問い:子供のお骨を家に置いています。このままでいいですか。


答え:それがあなたの幸せかどうかを考えてください。

お子さんを亡くしたお母さんの中には、子供のお骨をずっと自宅に安置している方がいらっしゃいます。愛しい我が子のそばにずっといたい、申し訳ない気持ちで謝り続けている、そういうお母さん達です。そのお気持ちは、母として、また人としても当然のことで尊い心だと思います。私は、お子さんのお骨を家に置いておくという行為自体は間違っていないと思います。ただ、これとは別に考えていただきたいことがあります。それは、お母さん自身の幸せについてです。

仏教には「執着(しゅうちゃく)」という言葉があります。執着とは、ああしたい、こうしたいという欲が強すぎて、その欲がかえって自分を不幸にしてしまうことです。欲は誰にもあります。ささやかな幸せを保つくらいのほどほどの欲なら良いのです。「一年に一回は家族旅行に出かけたい」とか「地味な服はやめて、明るい服を着て気分を変えたい」とかです。でも、もしこれが「一年に一回ではなく、毎週出かけたい」とか「明るい服でも、シャネルでなきゃダメ」というふうに欲が強くなってしまうと、色々と問題が起きて幸せでいられなくなります。

お母さんの、子供のお骨に対する気持ちもまた同じです。お骨のそばで生活することが、お母さんの心を和(なご)ませ幸せにしてくれるのなら、それもいいでしょう。しかしお骨への思いが強すぎて、いつまでも悲しみから抜け出せなかったり、新しい幸せをつかむ障害になっては困ります。第一、母親のそんな姿を亡くなった子供は見たくないでしょう。

もし現状が、少しでも不安だったり、重荷に感じるようなら、迷わずお骨を手放すべきです。手放すことは別れではありません。縁を切ることでもありません。お母さんとお子さんのそれぞれが新しい幸せをつかむことなのです。目に見える形ではなくても、二人の心はしっかりと結び合っているのですから、何も心配はいりません。お母さんは「この子がいるから、私は幸せになれた」と言えるようになってください。お子さんは「大好きなお母さんが幸せで嬉しい!」ときっと言ってくれるでしょう。

お骨を手放すとは、お墓に埋葬したり、お寺に納骨することです。お寺の役目は、お母さんとお子さんの二人が同じくらい幸せになってもらえるように手助けをすることです。その第一歩は、執着する心を減らすことからです。ご相談はいつでも無料で承ります。一人で悩まないで、どうぞご連絡ください。

正雲寺副住職 無聖(むしょう)
メール: mushou@shounji.or.jp
LINE ID: mushosan
ご連絡の際「ブログを見た」と
書き添えていただけると幸いです。

会津正雲寺 0242-28-1110(24時間対応します)
大分正雲寺 097-583-4433(24時間対応します)
水子供養は、福島県と大分県にある二つの正雲寺で承ります。
正雲寺の水子供養 http://shounji.or.jp/mizuko.html


タグ:水子供養
posted by むしょうさん at 09:44| Comment(0) | 人生相談

2017年04月20日

【死と向き合う】どうして私だけこんなに辛い目にあうのでしょうか?


『死と向き合う』と題して、死に直面した人々の心の声を連載します。これらの声に私たちはどう向き合って、何を答えればいいのでしょうか。死は誰にも平等に訪れます。自分自身の事として、または見送る側の家族として何ができるのかを一緒に考えて参りましょう。

人は支え合って生きています。互いに会ったこともない他人同士でさえ、有形無形に支え合って生きています。これは否定のしようのない自然の法則だと言われています。しかし私たちは、残念なことに、自分の目に見えるもの、肌で感じられるものしか認めようとしません。地球の裏側に住む人が自分と何の関わりがあるのかと、初めから疑ってかかる人に、この法則は認めがたいものです。しかし目に見えない、肌に感じないという理由で認めないのなら、まごころや思いやりも認めないことになります。「大切なものほど目に見えない」とは『星の王子さま』の一節です。目に見えないものを信じる心を持ったからといって、私たちが何か損をするでしょうか。私は例え目に見えなくても、私が誰かに支えられていること、そして誰かを支えていることを信じています。その方が幸せを実感できるからです。

なぜ自分だけが辛い思いをするのか。これは、理不尽とも思える苦しみを甘んじて受け入れるだけの意義が見つからないからです。いったん生じた苦しみを無かったことにすることはできません。人にできるのは、苦しみを受け入れるために納得できる意義を探すことだけです。ある実話をご紹介します。ナチス支配下のアウシュビッツ強制収容所に収容されたある夫婦の話です。

別々の部屋に収容された夫婦は、二度と会うことができない、互いの生死すら分からない、明日にはガス室に送られるかもしれないという絶望的な状況にありました。夫は神に祈りました。「私が妻の苦しみの分まで背負います。ですからどうか妻を生き永らえさせて下さい」と。夫は、自分が1日苦しみに耐えることで、明日をも知れない妻の命が1日延びると信じて、それを神との契約として、収容所での苦しみに耐えたのでした。果たして妻が生き永らえたかどうかは分かりません。夫は自分の苦しみに意義を与え、そして希望と勇気を持ってガス室へ向かいました。

人は迫り来る条件を選ぶ自由を持ちません。老いることも、病気になることも、災害にあうことも、自分で選ぶ自由はないのです。しかしそれらの条件をどのような心で受け入れるかを決める自由は持っています。この夫のように、過酷な条件に対しても自分が納得できる意義を見出す自由があります。反対に過酷な条件に絶望し生きる力を失う自由もあるのです。

前述したとおり、人は支え合って生きています。あなたが辛い目にあっているのも、誰かを支えるためかもしれません。あなたが体の痛みや心の苦しみに耐えることで、あなたの大切な人の痛みや苦しみを減らすかもしれません。私は、実際に「私が苦しむ分、妻の苦しみが減ると思えば耐えられます」という言葉を死に直面した人から聞いたことがあります。それは非科学的で妄想的かもしれませんが、苦境に立つ人に確かな希望を与えたのです。仏教は「命と命は互いにつながり合い、決して孤立していない」と説きます。目にも見えず、肌にも感じませんが、自分の命が人の命に役立っていると考えることは、過酷な条件の中で見出すものとしては最善最良かもしれません。みなさんはどうお考えですか?

posted by むしょうさん at 07:44| Comment(0) | 人生相談

2017年04月18日

正雲寺で働きたい方へ


正雲寺には、ご自分のお仕事の合間に、お寺の仕事を手伝ってくださる方々がいらっしゃいます。皆さま、ご奉仕の心と笑顔で働いてくださいます。私どもはいつも頭の下がる思いです。これらの方々とは別に、身も心も仏道に置いて、心を修練したいという方もいらっしゃることでしょう。そのような方にも広く門戸を開きたいと思います。勤務地は、福島県会津若松市か大分県由布市です。詳しいことは実際にお目にかかって取り決めたいと思いますが、さしずめ以下のことを最初の条件とさせていただきます。

@ 年齢は40歳くらいまでの方。
A 将来的に出家をお考えの方。
  性別は問いません。女性の方も歓迎いたします。
B 人の役に立ちたいという心を持っている方。
C 人に優しくできる方。
D わがままを言わない方。
E お掃除や草花の手入れができる方。
F パソコンを使える方
G 自動車免許をお持ちの方。

ご希望の方は、まず顔写真入りの履歴書を会津本山にお送りください。書類選考の後、お話をよくうかがった上で決定いたします。

【履歴書送付先】
〒965-0815 福島県会津若松市東山町湯川角仏沢643
封書に「履歴書在中」と明記の上、ご送付ください。

posted by むしょうさん at 12:52| Comment(0) | お知らせ

2017年03月23日

『修証義』 第19節


「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200−1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめて、仏さまの教えを優しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文形の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【現代語訳】
菩提心を心に抱いたなら、たとえ子供であっても善き教師です。お釈迦様と同じ人類の師です。年齢や性別で差別をしてはいけません。ただ菩提心を起こしているか否かの区別があるだけです。これは仏教の大原則です。

【ミニ法話】
菩提心とは、自分の利益よりも人の利益を優先するということです。自分の楽しみや喜びは、ひとまず後回しにして、人の楽しみや喜びのために努力することを言います。この心を持った人なら、その人は私たちを幸せへと導いてくれる尊い人です。子供だから、弱いから、愚かだから、と言って決して軽んじてはいけません。菩提心を持つとは、それほど重大なことなのです。「区別」はあっても「差別」を決して許さないのが仏教です。

タグ:お経を読む
posted by むしょうさん at 10:05| Comment(0) | 現代語訳『修証義』

2017年03月04日

幸せになる方法

3日のNHKニュースの特集に「都会最後の靴磨き 真心を込め」という記事が掲載されました。東京新橋駅の路上に座り、45年間靴を磨き続けている女性(85歳)の話です。早くにご主人に先立たれ、一人で子供5人を育て上げました。並々ならぬ覚悟と言葉では言い表せないほどの苦労がありました。今でも現役で、朝10時から夜7時まで座り続けています。夏は日射しが強く、冬は寒風吹き抜ける場所で、お客は一人だけという日もあります。それでも「お母さん」と慕ってやって来る常連客もいます。仕事がうまく行かないと愚痴をこぼす人、恋愛がうまく行かないと涙を見せる人。多くの人の人生を見て来ました。その度に女性は「そうだね、そうだね」と優しくうなづきます。記事は、女性の次の言葉で終わっていました。

「私を必要としてくれるお客がいる限り、死ぬまでここに座っていたいの。私の名前は、幸子。人に幸せになって欲しい、って願いが込められていてね、それが私の幸せでもあるのよ」

私はこの言葉にとても、とても感動しました。それは、この女性が、宗教が説く真理を見事に体現しているからです。それも、お寺や教会で僧侶や神父様たちが説くよりも、はるかに大きな説得力を持ってです。真理は説きます。

「人生で大切なのは、何をするかではなく、どれほど人に必要とされるかです。そして、どれほど人を幸せにできるかです。それが結局は、あなた自身の幸せにつながるのです」

人の人生は様々です。自分をさげすむ必要もなければ、反対に威張ったりする必要もありません。お婆さんが教えてくれた二つの事を胸に秘めて黙々と生活できれば、ただそれだけで人は幸せになれるのです。本当にそれだけで。

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2017年02月19日

問い:人の粗(あら)が気になって腹が立ちます。


答え:口を開かないように。

気になってしょうがないのですね。そんなあなたに「人の粗を見ないように」と言っても難しいでしょう。せめて口を開かないようにしてください。人の粗を見た後で話す言葉などろくなものはありません。即座にしっぺ返しをくらうか、後で後悔するだけです。黙ったまま、決して言葉にしないこと。あなたの中の悪い心が通り過ぎるのをじっと待つことです。お経には「人のすることしないことを見るな。自分のすることしないことを見よ」と書かれています。

posted by むしょうさん at 10:44| Comment(0) | 人生相談