2016年12月29日

今年もありがとう


皆さまが聞いてくださるから、私は真実であろうと努めます。皆さまが信じてくださるから、私は善であろうと努めます。皆さまがいてくださるから、私はこうして僧侶でいられるのです。大切なことはすべて皆さまが教えてくださいました。本当にありがとうございました。

新年が皆さまにとって幸せな一年となりますよう心からお祈りいたします。たとえ今が悲しくても必ず喜びが訪れます。たとえ今が虚しくても必ず心は満たされます。どうぞよいお年をお迎えください!

posted by むしょうさん at 21:04| Comment(0) | 日記

2016年12月24日

クリスマスおめでとうございます


今日はイエス様の誕生日です。私は信徒ではありませんが、「本当のこと・大切なこと」を教えてくれるイエス様を敬愛しています。そのご降誕を素直に喜びたいと思います。イエス様は、豪華な宮殿ではなく質素な馬小屋でお生まれになりました。このことは私に「静けさの中で、慎ましくあれ」と教えてくれます。私も心静かに、身近な人々への愛を思いながら聖夜を過ごしたいと思います。様々なご縁が一つに実って、今夜は教会のミサに参列させていただくことができました。とても幸せな一夜となりました。

しかし世の中には、今この瞬間も苦しく悲しい思いをされている方もいらっしゃることでしょう。クリスマスどころではないかもしれません。そんな誰にも相談できずに一人でじっと耐えている方にこの話を贈ります。

ある男が夢を見ました。夢の中で男は主イエスと二人で並んで歩いていました。男が後ろを振り返ると、これまでの道のりには、主イエスと自分の二組の足跡が記されていました。ところが、所々、足跡が一組しかない場所があります。男は思いました。

「そういえば、その場所は私が苦しんでいた時だ。
私が苦しんでいた時に限って一組しかない」。
そこで男は傍らのイエスに尋ねます。
「どうして私があなたを一番必要とした時に、
私からお離れになったのですか」。
イエスがお答えになりました。
「いとしい我が子よ。
私は片時もお前の側を離れたことはない。
お前が見た一組の足跡は、私のもの。
私はその時、お前を背負っていたのだ」  

posted by むしょうさん at 23:59| Comment(0) | 人生相談

2016年12月21日

『修証義』 第17節


「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200−1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめて、仏さまの教えを優しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文形の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【第17節 現代語訳】
常に戒律を守って生活をしておられたお釈迦様は、世俗の人々が抱くような欲望に心が囚われることはありませんでした。今、受戒して戒律とともに生きる私たちも同じです。たとえば、同じ風景を見ても、仏の子と世俗の人とでは異なって見るものです。世俗の人は、土や草さえも欲望の対象として見ますが、仏の子は、土も草も石ころもすべて平等に仏の教えを顕わしたものと見ます。風も雨も仏の教えとなって、私たちが一刻も早くさとりを得られるように助けてくれていると捉えるのです。これが受戒の功徳であり、人間の意思やはからいを超えたものです。そしてこの功徳によって私たちは、菩提心を起こすことができるのです。

【ミニ法話】
長い鉛筆と短い鉛筆があります。ただ「長い」と「短い」だけなら、二本の鉛筆の違いを表現しただけです。目に見えるとおりの正しい事実認識と言えます。ところが「長い鉛筆は良い」「短い鉛筆は悪い」と言った時には、正しい事実認識から離れて自分勝手な考えに支配されます。善し悪しの基準は人それぞれで、いわば思い込みのようなものです。あなたにとっては気分を害する短い鉛筆でも、別の人にとっては使い心地の良い短い鉛筆かもしれません。あなたの勝手な思い込みが鉛筆から本来の価値を奪ったのです。鉛筆は鉛筆です。文字を書く価値に変わりはありません。私たちはこれと同じ過ちを鉛筆の他にもしているのではないでしょうか。
受戒して仏の子として生きることで、私たちは思い込みを減らすことができます。そうして思い込みが無くなった後に見る世界は、土や草や石ころでさえ、あるべき姿、ありのままの姿、本来の価値を現わすのです。そこに上下や優劣はありません。価値の比較がない完全なる平等、これがお釈迦様の言う“さとり”です。“さとり”は外からやって来るのではありません。一切の思い込みを無くしたあなたの心のあり様が、そのまま“さとり”なのです。物事には区別があります。しかし決して差別をしてはならないのです。

タグ:お経を読む
posted by むしょうさん at 10:31| Comment(0) | 現代語訳『修証義』

2016年12月19日

聖書と経典


このブログには、度々聖書の言葉が出てきます。私は、いわゆる“お坊さん”ですが、仏教経典と同じように、聖書を好んで読みます。経典や聖書に書かれている真理には、言葉や民族、国家や宗教の壁がありません。お釈迦さまがお説きになっても、イエス様がお説きになっても真理は真理だからです。私の心の中では両者に違いはないのです。 

聖書は「愛」を語ります。同じように、経典は「大悲」を語ります。いずれも「他者を大切に思う心」のことです。そして「この心によって、他の誰でもなく、あなた自身が幸せになるのだ」と説きます。キリスト教は2000年間、仏教は2500年間、この真理をまっすぐに説き続けてきました。これが歴史的な事実です。ところが私たちはこの事実を軽んじて、他者よりも自分を大切に思う心を優先しがちです。真理とは反対の心です。だから悲しみや苦しみが繰り返されるのです。

利己的な振る舞いは、ある意味で人間の防衛本能です。自分の命を存続させるためには仕方のないこともあります。しかしこれは程度問題です。本能は必要最小限にとどめておかなければ、他者との協調は難しくなります。人は、好むと好まざるとにかかわらず、集団で行動する動物、一人では生きられない動物だからです。私たちは本能の外側で高い理性を身につけることができます。自分にも他人にも悪さをしない程度に本能と付き合い、人生の大半を理性によってコントロールする力があるのです。そしてこの理性は、聖書や経典に書かれている真理に基づいています。実際に手にとって読んでみましょう。その価値は十分にありそうです。

posted by むしょうさん at 09:25| Comment(0) | 人生相談

2016年12月15日

誰も見ていないところで


善いことをしましょう。とかく人の目は気になるものです。善いことをするなら、人に分かるようにしたいのが本音でしょう。しかしそれでは「人によく思われたい」という欲が一番で、「善いことをする」という良心が二番になります。せっかくの良心が欲で曇ってしまいます。ですから、わざわざ人が見ていないことを確認してから善いことをするのがいいのです。これは、あなたが非常な勇気を出して欲を断ち切っている努力の証しでもあります。でも、本当に誰も見ていないと思いますか。神さまはしっかり見ています。そして必ずそれにふさわしい果報(喜びや楽しみ)を与えてくださいます。

「〔善いことをする時は〕右手がすることを左手に知らせてはならない。〔善いことをするのを〕人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに酬いてくださる」(マタイ6.3)

posted by むしょうさん at 00:00| Comment(0) | 人生相談

2016年12月13日

力としての愛を育てよう


前回の記事で私は「素直さは力であり、修練して蓄えるもの」とお話ししました。実は「愛すること」も同じです。「愛すること」も私たちが生まれつき持っているものではなく、後天的な努力によって勝ち取る「力」なのです。なぜなら「愛すること」は智慧に裏付けられた行為であり、とても理性的なものだからです。この智慧とは無関係に誰でも本能的に持っているのが「好き嫌い」という感情です。例えば、あなたに嫌いな人がいるとします。「ひどい仕打ちをされた。裏切られた。傷つけられた」など理由は様々です。とにかく話しもしたくないし、会いたくもないという人です。感情的にはその人を避けて通りたいと思っています。ところが、ある智慧を持てば、そんな相手でも自分の恩人のように思えたり、その人の幸せを祈ったりすることができるのです。その智慧とは「ご縁に感謝する」ということです。

考えてもみてください。あなたは相手のひどい仕打ちのおかげで、ちょっとやそっとのことではへこたれない強い心を獲得したのではありませんか。傷つけられた時の心の痛みが分かるから「自分は人にそんなことはしない」という優しさを持てるようになったのではないですか。ひどい仕打ちをした相手に対してではなく、そのような人を自分の目の前に置いた神仏のお計らい(これを「ご縁」と言います)に感謝するのです。神仏から見れば、私たちは将棋の駒のようなものです。駒の配置には必ず意味があります。そこには神仏の親心やエールが隠れています。その意味を読み解き、自分のプラスにできれば、感謝することができるのです。

私にも嫌いな人がいます。今でも感情的には近づきたいとは思いません。その人からはひどい仕打ちを受けましたが、しかし結果として、その人が直接的間接的な原因となり、私はこうして仏道を歩くことができるのです。最初は「ご縁」に対してだけ感謝をしていたのですが、今では相手にも感謝の心を持てるようになりました。不思議なことですが、この気持ちは徐々にやって来るようです。少し時間がかかります。でもそれが修練というものなのでしょう。嫌いな人でも愛することはできます。その人の幸せを祈ることもできます。本能や感情に振り回されず、智慧によってマイナスをプラスに転換し、人として成熟すること。それが人間として生まれた私たちの特権というものです。「力としての愛」を育てていきましょう。

posted by むしょうさん at 09:51| Comment(0) | 人生相談

2016年12月09日

問い:素直になれません。

答え:素直の正体を知っていますか。

素直とは、偏(かたよ)らないことです。自分を特定のタイプに当てはめないということです。世間には「地味な人」もいれば、反対に「華やかな人」もいます。しかしどちらも素直とは言いません。地味な人は「地味」ということに、華やかな人は「華やか」ということに偏っているからです。同じことが「暗い」「明るい」「気が弱い」「気が強い」などにも言えます。ブッダは、どれも結局は同じエゴだと断じています。一見して好印象のものも、どこかで人を不安にさせることがあります。エゴが見え隠れするからです。

自分を特定のタイプに当てはめれば楽に生きられます。いつも同じタイプを演じればすみますし、自分と異なるタイプを堂々と拒絶することもできます。「色々考えなくてすむ」というのが本当のところかもしれませんね。しかし、この「タイプ」が、私たちの成長(心の成熟)を妨げているのです。

一台の車があります。VIPと呼ばれる人は後部座席に座り、お抱え運転手はハンドルを握ります。もしVIPが「運転は私の仕事ではない。運転手が来るまで待っている」と言い、そして運転手が来なかったとしたら、VIPは永遠に目的地にはたどり着けません。車の役割は、目的地に行くことです。この理(ことわり)が分かれば、VIPは自分でハンドルを握ればいいのです。

偏らないためには、心の成熟が必要です。大切なことは何か、目的は何かを考える力が必要です。本物の「素直」は、天性のものではありません。生まれつきそなわっているわけではありません。後天的な努力によって勝ち取るものなのです。それは「力」です。力は修練して蓄えなければなりません。「素直になれない」と悩んでいるあなたは、どこかで「自分には天性の素直がない」と思い込んで、あきらめているのではありませんか。本物の「素直」は、努力によって得るものです。今からあなたが努力を始めれば、力としての「素直」が手に入ります。安易に自分をタイプに落し込まないでください。タイプの上にあぐらをかかないでください。今の自分のタイプから抜け出す勇気を持ってください。

posted by むしょうさん at 06:58| Comment(0) | 人生相談

2016年12月07日

問い:思い通りになりません。

答え:思い通りにならないのが当たり前です。

ある老人は言いました。「人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができ、またより大いなる者への随順の気持ちも起きようというものだ」と。

本当にその通りですね。私の思いの中にも、良い思いとよこしまな思いとがあります。私は自分のよこしまな思いがどんなものかを知っていますから、それが思い通りになって形になることを想像するとゾッとします。思い通りにならなくてよかったと思います。お釈迦様は、よこしまな思いを“悪魔”と呼び、「誰の心にも住みついている」とおっしゃいました。私は、私の中の悪魔を退散させ、良い思いだけで生きられるようにとお釈迦様に祈っています。それが「大いなる者への随順の気持ち」というものでしょうか。

しかし良い思いまで思い通りにならないのは辛いですね。ある人と「良い関係を築きたい。仲良くなりたい。信頼し合いたい」と思って努力しているのに、相手は少しも反応してくれないということがあります。辛いですし疲れます。八木重吉(1898-1927:キリスト教信徒・詩人)はこう言います。

人と人とのあいだを
美しくみよう
わたしと人とのあいだをうつくしくみよう
疲れてはならない

良い思いを通そうとすると、時に疲れます。そう、疲れてはいけないのです。あきらめないでください。無関心にならないでください。あなたが努力して愛を込め続けていることは、神仏をはじめ皆が知っています。

posted by むしょうさん at 00:00| Comment(0) | 人生相談

2016年12月05日

『修証義』 第16節

「しゅしょうぎ」は、道元禅師(1200−1253)のお言葉を集めて作られた曹洞宗の基本聖典です。仏教の要点を全31節にまとめて、仏さまの教えを優しく解説しています。皆さまに仏教とのご縁を深めていただきたいと願い、古文形の『修証義』を現代語に翻訳しました。卒業論文で初めて試みて以来、この作業は私のライフワークになりつつあります。私の等身大の『修証義』としてご覧いただければ幸いです。

【第16節 現代語訳】
これらの〔十六条の〕戒律を授かれば、お釈迦様と同じさとりを得ることが約束されるのです。賢明な人で、これを願わない人がいるでしょうか。お釈迦様は次のように仰っています。「受戒した人々は、仏の仲間入りをしたのである。仏と同じ位に就くことが約束されたのである。仏の子になったということである」と。

【ミニ法話】
受戒を機に、私たちは「仏の子」となります。正真正銘の「仏」へと至る道、それも脇道のない一本道を歩み始めるのです。これはたいへん重大な転機です。なぜなら、受戒するまでは俗世の人間として無闇に罪を犯し続けていたのが、受戒した後は「仏の子」という自覚のもとに、仏として振る舞うようになるからです。「殺さない」という戒律は「殺せない」に、「嘘を言わない」という戒律は「嘘を言えない」に昇華していきます。仏として振る舞い続けるには忍耐(忍辱)と努力(精進)が必要です。私たちの心はとても弱く、油断すると、もとの俗世の感覚に戻ってしまうからです。努力は、さとりを得て「仏」となる日まで続きます。ある高僧は努力について「仏の生き方を真似ることだ。一日真似れば一日の真似。二日真似れば二日の真似。一生真似れば本物」と言いました。では、「仏の生き方」とは何でしょうか。それは「他人の幸福のために生きる」というただ一点です。

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posted by むしょうさん at 00:00| Comment(0) | 現代語訳『修証義』

2016年12月03日

ラブちゃん


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ラブちゃんは一番体が小さくて、末っ子の甘えん坊タイプ。甘噛みが大好きで、お坊さんたちの指をフガフガ言いながら噛んでいます。その仕草がとても可愛いのです。きれいな赤毛で、うり坊に似た縦縞が背中にあります。年齢を感じさせない、いつまでも愛くるしいラブちゃんです。

posted by むしょうさん at 07:52| Comment(0) | 日記